ファミーユ人材事情


/1.

「ねえ、仁」
「ん?」
カレンダーの日付がそろそろ変ろうかという時刻。
俺のパソコン――とはいえ実情は里伽子の専用機――と
にらめっこしていた里伽子が、不意に俺を呼んだ。

「どうした?」
その口調に真剣な響きを感じて、
俺はベッドから起きあがり、里伽子の方へと駆け寄った。

「ちょっと相談があるんだけど」
「……何か問題があったのか?」
俺の問い掛けにも、里伽子はディスプレイから顔をあげず、その声は堅いまま。
そんな彼女の態度に一抹の不安が、胸の中に産まれてざわついた。

順調だと思っていたファミーユの経営。
しかし、その実、破綻の種が潜んでいたというのだろうか―――?

そんな筈はない、と不安を振り払う内心の声に、
でもひょっとしたら、と振り切れない不安が重なった。

そんな二つの思考を交錯をさせつつ、俺は里伽子の肩越しにディスプレイを覗く。
しかして、そこに映されていたものは―――。

「……シフト表?」
「そう。来月の分を考えてたんだけど……仁」
そういって里伽子は、ディスプレイから目線をあげて俺の顔を見つめた。
その瞳に僅かな逡巡の色を浮かべつつ、そのまま言葉を続ける。

「あのさ……そろそろ人手を増やさない?」
「今月のシフト、そんなに厳しいのか?」
「今月は特に問題なし。厳しいのはいつものことだから」
「うっ」
さらり、と痛いところを付かれて一瞬声に詰まる。
確かにファミーユが順調になるにつれて、みんなには働いて貰う時間が増えているのは事実。
本来学生の筈の由飛なんて、ほぼ毎日出勤しているぐらいだ。

だが、それが問題じゃないというのなら、どうして人手を増やす必要があるのか―――
そう尋ねる前に、里伽子の方から答えが返される。

「明日香ちゃん、今年受験でしょ?
 今までのペースでシフトに入れる訳ないじゃない」
「あー。そうだよなあ」
決して忘れていたわけじゃないけれど、改めて突きつけられた事実に、俺は誤魔化すように頬を掻いた。
里伽子の言うように、今だって、正直ぎりぎりの状態で走り続けてる。
誰かが何かの理由でリタイヤしてしまえば、そのしわ寄せは少なくない負担を誰かの肩に背負わせてしまう。

(……とはいえ)
だったら新しい人を雇いましょう―――と、そう簡単に決められるほどウチの台所事情は簡単じゃなかった。
ブリックモール店の運営経費のみならず、一号店を再建するための資金に、里伽子の治療費。
その他諸々の理由から、繁盛している割には余裕がないのがファミーユの実情だったりする。

それが明日香ちゃんの事を把握しながらも、それでもズルズルと先延ばしにしていた理由でもあった。

「……でも、そうだな。そろそろ考えないといけないよな」
「うん。即戦力を引き抜くか、早めに後継者を育てておくか。
 どうにかしないと、夏あたりから回らなくなるよ」
「そうだな……」
明日香ちゃんの受験もそうだが、今年は里伽子の卒論だって在る。
里伽子もこっちにべったりという訳にもいかないし、里伽子の腕代わりである俺も
ファミーユに割ける時間は減るということに繋がる。

……なら、いい加減、手を打っておくべきか。

「よし。そろそろ新しいバイトを募集するか」
「……仁」
「ん?」
気付けば里伽子が軽く目を伏せている。
その態度に、里伽子の次の台詞が想像できた。

『ごめん』。

「ごめ―――」
「里伽子」
「いたっ」
その言葉を聞きたくなかった……というより言わせたくなかった俺は、
こつん、と額を叩いてから、わしわしとその髪をかき混ぜた。

「ちょ……っ、仁。もう、止めてよ……」
「止めるのはお前。こういうとき謝るのは無し。な?」
「ん……」
くしゃくしゃにした髪を、今度は撫でつけながら諭す俺に、
里伽子は口を閉じたままコクリ、と頷いた。
多分、口をつきかけた「ゴメンね」という言葉を飲み込みながら。

「ああ、もう」
こいつは。
こういう所は、本当に不器用で。

「あ、」
だから俺は胸を締め付ける感情に押されるままに、
ぎゅっと里伽子の頭を胸の中に、抱きしめる。

「言っただろ。里伽子に迷惑かけられるのは嬉しいんだって」
「……うん」
俺の胸に額を押しつけながら、里伽子は小さく頷いて。
そして、不意に小さく笑った。

「里伽子?」
「でも、仁。今の台詞、ちょっと、変態っぽいね」
「あのな。そういうこというと、夜に後悔するぞ〜」
「馬鹿」
からかうつもりで返した言葉に、里伽子は伏せていた顔をあげると、
そっと動かない左手を俺の胸に添えて。いたずらっぽく微笑んだ。

「……別に、後悔なんてしないもん」
「はい?」
「仁にだったら、何されてもいいんだから」




/2.

「―――ということで」
里伽子の提案を受けた翌日。
俺はみんなの意見を求めるべく、閉店後にスタッフルームでのミーティングを開いていた。
お題は勿論、人材の募集について。

「スタッフの募集をしようと思うんだけど、みんなの意見はどうかな」
「……何故かしら」
「姉さん?」
すっかり着替え終わって、のほほんと紅茶を啜りつつ話を聞いていた筈の姉さんが、
眉根に皺を寄せて小首を傾げている。

「なにか拙かった?」
「うーん。なんだか仁君にものすごく惚気られた気がする」
「……意味不明なことを口走らないように」
「だってだって、時々、里伽子ちゃんと意味深に見つめ合ったりしてるんだもん」
「してません」
コホン、と咳払いして姉さんの危険な台詞を遮ると、俺はみんなの顔を見回した。
里伽子、由飛、かすりちゃん、明日香ちゃん。銘々の表情で、俺の提案を咀嚼している様子だった。

「では、改めて。みんなの意見はどうかな」
「いいんじゃない? お客さんも増えてるし、フロアメンバーが増えるのには賛成〜」
はーい、と賛成に一票とばかりに無邪気に手を挙げてくれるかすりさん。

「じゃあ、かすりさんは賛成、と。
 まあ別にかすりさんの休憩時間は増えないとは思うけどね〜」
「鬼〜! 少しくらいは楽になるって希望をくれてもいいじゃない」
「えーと、ファミーユ目安箱には「かすりさんは仕事しろ」という投書が多数ありまして」
「してるのにしてるのにしてるのに〜」
不満げにかすりさんが抗議の声を張り上げる。その傍ら、明日香ちゃんが表情を曇らせて顔を伏せていた。

「……明日香ちゃん?」
「ごめんね、てんちょ。迷惑かけちゃって……あいた」
こつん、と軽く頭を叩かれて明日香ちゃんが顔を上げる。
その彼女の目をのぞき込みながら、なるべく優しい笑顔をつくって、頷いた。

「迷惑とか言わないの。明日香ちゃんはちゃんと学生の本分を全うするのが一番大事だろ」
「……うん。ありがと」
「まあ、仁君がいっても微妙に説得力に欠けるわけだけど」
「ううっ」
明日香ちゃんを諭す俺に、かすりさんがさっきのお返しとばかりに、痛いところをついてくる。

「ほれほれ〜、反論してみなさいよ」
「ちゃ、ちゃんと復学したから問題ないもんね」
「でも、復学したのってリカちゃんのためだもんね〜。それってば、学生の本分とかからほど遠い理由よね」
「うううっ」
「明日香ちゃん。迷惑だなんて、心配しないで」
そんな俺とかすりさんのやり取りを尻目に、里伽子はぽん、と明日香ちゃんの肩を叩いて微笑みかけた。

「私の時、明日香ちゃんは頑張ってくれたでしょ? だから、今度は私が頑張る」
「里伽子さん……」
「だから……ちゃんと合格して、また、戻ってきて貰うからね?」
「……うん」
優しい眼差しと言葉に、明日香ちゃんの目にうっすらと涙が浮かぶ。
そんな彼女の頭を優しく撫でながら、里伽子はやっぱり微笑んだまま続けた。

「それで合格した暁には」
「うん……」
「泣きたくなるくらいのシフト組んであげるからね?」
「うん……って、ええ?!」
「というか、泣いたって許してあげないんだからね?」
「り、里伽子さん、目が笑ってないよぅ」
「本気だもの」
「ひ〜ん。喜んで良いのかわからないよう」
感動の雰囲気から一転、冷静な経営者の眼差しで微笑む里伽子に、明日香ちゃんが戦いた。
……いや、思わず俺も戦いているが。

「鬼よ。鬼がいるわ」
「う〜む。我が彼女ながら、鬼だな」
「仁。経営者は基本的に鬼じゃないとダメだから」
「それもそうだな」
「てんちょまで、変な納得しないでよう」
ともあれ、いろんな意味で微笑ましいやり取りのあと、
俺はかすりさんに、話の矛先を向けた。

「ところでかすりさん。キッチンスタッフとか、募集して欲しかったりする?」
「え? キッチン?」
「あら、キッチンは大丈夫よ?」
俺の問いかけに、かすりさんではなく姉さんが自信満々で答えてくれた。
えっへんとばかりに胸を張って答える我が姉に、しかし、俺は軽く首を横に振る。

「いや、ごめん。姉さんには訊いてないから」
「何よ、それ〜。仁くんがいじわるする〜」
当然といえば、当然の姉さんの反応だが、「ケーキ焼いてれば幸せ」な姉さんの意見はこういう場合、参考にならない。
ということで、俺は拗ねる姉さんを宥めつつ、かすりさんにもう一度、聞き直す。

「で、かすりさん。どう?」
「そうね……。欲を言うなら、男手が少し欲しいかな」
「そっか……そうだよな」
春から俺が復学した関係上、俺が材料運びなどを担当する割合は減っていた。
なら、肉体労働係の人材も必要かも知れない。
かすりさんの返事に頷く俺に、姉さんは不満そうに唇を尖らせた。

「そうかなあ。
 かすりちゃんはもうちょっと力を付けないとダメだと思うな」
「恵麻さんは体力在りすぎ―――」
「明日香ちゃん?」
「な、何でもないです」
「言いたいことがあるのなら言わないとダメよ?」
「ひ〜ん、恵麻さんの笑顔が怖いよう」
にっこりと姉さんに笑顔を向けられて、明日香ちゃんは、顔をブンブカ勢いよく横に振っていた。

「……笑顔でコミュニケーションって、大事だよな?」
「そこで同意を求められても。
 それより、仁くん。結局、何人、雇うつもりなの?」
「即戦力なら一人で良いだろうけど……まあ、バイト二人採用って方向で考えてる」
そう答えた俺の言葉に、今まで何かを考え込んでいるようにおとなしめだった由飛がふと首を傾げ
そして何かを吹っ切ったように手を打った。

「は〜い、店長。提案がありま〜す」
「ふむ。由飛くん。言ってみたまえ」
「ズバリ! キュリオから玲愛ちゃんを引き抜く」
「却下」
いきなり何を言い出すかなこの娘は。
突拍子もない提案を当然のごとく却下した俺に、しかし、当の由飛は不満げに口をとがらせていた。

「え〜なんで〜」
「却下といったら却下」
「応じるはず無いと思うけど」:
「それはちょっと……ねえ」
「できるわけないでしょ」
「由飛さん唐突すぎ。今更だけど」
「でもでも〜」
俺だけでなく全員から総スカンを食らいつつもなおも由飛は食い下がる。
訴えかけるような視線で俺を見つめて、更に続けた。

「仁は良い考えだと思うでしょ?」
「だから、思わないというのに」
「なんで〜。良い考えだと思うのに〜」
「あのなあ」
「いや、良い考えだと思うよ」
「そうかなあ?」
「でも、どうせなら、僕を引き抜くとか考えないかい?」
「ああ、それは全く考えないが……って、いつからいた」
飄々とした声に振り向けば、そこにいるのはライバル店の店長たる板橋さんの姿。
最早、どうやって入ってきたとかそういう事を疑問に思わせないあたりが恐ろしい。

「ライバル店のミーティングに堂々と顔を出せる根性は、認めるべきかも」
「根性というか、無神経なだけじゃない?」
妙に真剣に頷く里伽子に、かすりさんが肩をすくめて苦笑した。

「なんか、褒められているのかどうか微妙だね」
「褒められては居ないから、安心しろ」
「冷たいなあ」
素気なくそう答えると、板橋さんはいつもの寂しげに肩をすくめる。
が、それ以上にダメージを受ける気配もないので、俺は溜息をつきつつ言葉を向けた。

「それより、自分の店のミーティングはいいんですか?」
「いいよ、全部カトレア君がしきってるからね。
 むしろ、僕が居ると邪魔者扱いされるんだ」
「胸を張って言わないでくれ」
同じ店長としていたたまれなくなるから。
そう突っ込む俺に、

「馬鹿だなあ、仁君」
ははは、と軽く笑って板橋さんが俺の肩を叩く。

「こんなこと、寂しげに言ったらフォローのしようがないだろう?」
「その発言の方がフォローのしようがないです」
有能すぎるチーフがいると、店長とはかくも哀しい物なのか。

「そういうわけで、僕を邪魔者扱いしないのは、ここだけなんだよ」
「いや、きっちりと邪魔者だから。帰れ」
「まあまあ。そんなことより本題に戻ろうよ。カトレア君の話だろ?」
それは本題でも全然無いのだが、こちらがそれを指摘するより前に、板橋さんは意外な台詞を言い出した。

「構わないよ?」、と。

「……へ?」
あまりにあっさりとした口調に、
意味を掴み損ねて呆然とする俺に、板橋さんは取り立てて表情を変えずに頷いていた。

「カトレア君を引き抜かれるのは痛手だけどね。
 本人が、こっちで働きたいっていうのなら止めはしないよ?」
「そ、そうなのか」
「恵麻さんと交換なんてどう?」
「「それは却下」」
「ちえ」
俺と姉さんの即座の否定に、板橋さんは残念そうに口をとがらせる。

「仁君はそろそろ姉離れすべきだとおもうんだけどなあ」
「それは同感ですけど」
「筋金入りだからね〜」
「死んでも直らないよね」
「言いたい放題だな、お前ら」
自覚しているところを突っ込まれたので、我ながら突っ込む言葉に迫力は欠けていた。
しかも、里伽子の視線がぐさぐさと心に突き刺さって痛い。
でも、ここで言葉を間違うと、姉さんの暴走を招くので、ぐっと我慢するのが正しいと思うんだがどうだろう。

「そういうのをヘタレっていうのよ。仁君」
「素で心を読むのは止めてください」
「相変わらず、ここにいると退屈しないなあ」
「朗らかな笑顔で人の窮地を眺めるな!」
「窮地っていつものことじゃない。それより、仁君」
俺の叫びを、板橋さんは何げに酷い言葉でさらりと受け流す。

「恵麻さんの話は別として、
 カトレア君を引き抜きたいのなら、それなりの覚悟はしないといけないよ?」
「か、覚悟……?」
「そう。カトレア君を引き抜くということは―――」
飄々としたいつもの態度から一転、板橋さんは表情を引き締めた。
その雰囲気に、思わずこちらも緊張に唾を呑み、その次の台詞を待つ。
そんな俺達の態度に、板橋さんは頷くと重々しく口を開き、言った。

「カトレア君を引き抜くということは、
 キュリオ3号店のスタッフを路頭に迷わせるということになるってことなんだから」
「潰れるのかよ!」
「じ、自分で切り盛りする気はないんだ……」
「ははは、おかしな事を言う」
戦く明日香ちゃんに、板橋さんは朗らかに笑いつつ胸を張り、言った。

「カトレア君が居ないで、僕がキュリオを切り盛りしているところが君たちに想像できるのかい?」
「だから、そこで威張るな」




/3.

「―――という言う会話が昨日あった」
「……あの人は」
花鳥は頭痛を抑えるように頭を押さえて、ため息をつく。
その苦悩に満ちた顔に、俺は問いかけずにはいられなかった。

「前から訊きたかったんだけどな」
「なによ」
「キュリオの店長ってどういう基準で選ばれるわけ?」
「訊くな」
開店にはまだまだ時間がある時間。
共同のオープンスペースを掃除中、お向かいさんのチーフと顔を合わせた俺は、
なんとなく昨日の話を持ち出していた。

「一応言っておきますけどね。二号店の結城店長はまともな人なんだからね」
「ちなみに一号店の店長はどんな人?」
「……立派は人よ。決まってるじゃない」
「何故、目をそらす」
流石に、あの板橋さんを店長に据えるだけ会って、なかなか面白い人のようだな。
花鳥の態度にまだ見ぬキュリオの総店長の人柄を思い浮かべながら、俺は別のことを口にしていた。

「まあ、それはともかく良い傾向だよな」
「何がよ。今の話の中に、何か良い要素があったとでもいうのか、あんたは」
「あっただろ?
 由飛の奴がお前と一緒に働きたいなんて言ったんだぞ。良い傾向だろ?」
「……それは……、そうだけど」
差し向けた問いに、途端に花鳥の声のトーンが落ちる。
普段は必要以上に強気な癖に、由飛の話題を出すと、途端に消極的になるのは相変わらずだった。
……でも。

「でも、まあ、由飛の奴も今まで通りにはいかないかもしれないしな」
「……なんでよ」
そのくせ、あいつの話題を振ればちゃんと食いついてくる。
花鳥のそんなお人好しな態度に感心しつつ、俺は答えを返してやった。

「いや、つい忘れそうになるんだけどさ。由飛の奴も学校があるだろ?
 なんか、さぼりがちみたいだから、なんとかしてやりたいし。
 だったら、今のまんま毎日シフトに入ってるのはマズイだろ?」
「……あんたって、里伽子さんのことがあるのに、その上まだ由飛の面倒まで見ようって言うの?」
呆れた、という風に息をつく花鳥に、俺は苦笑しながら頷いた。

「まあ、余裕がないのは確かだけどな。
 手助けできるものならしたいよ。仲間なんだしさ」
「お人好し」
「お前に言われたくはないな」
「なによ、それ」
「さあね〜」
自分がどこまでお人好しなのか、俺以上に自覚がないらしい花鳥におもわず口元が緩む。
が、そんな俺の態度に、癇に障ったのか、

「なによ、このっ! 感じ悪いわね」
「蹴るな、叩くな!」
問答無用で箒を振り上げて攻撃してきた。

「箒で人をなぐっちゃいけません。箒はゴミを掃除するために使え!」
「だから、今ゴミ掃除をしてるんじゃない!」
「俺がゴミだと言いたいのか、お前は!」
と、不毛な争いを繰り返すこと暫し。

「……掃除しよう」
「……そうね」
お互い、開店までにやることは山のようにあることを思い出して、
疲れた面持ちで頷きあうと、今度は黙々と箒を動かした。

……とはいえ、微妙に落ち着かない空気は俺と花鳥の間に漂っていて。
いきなり由飛の話題をふったのは悪かったかなあ、と反省し始めた頃、

「……あんたは……どうなのよ」
「ん?」
ぽつり、と呟くような花鳥の言葉が俺の耳に飛び込んだ。

「だから……」
「うん」
かき集めたゴミをちりとりで救いつつ、花鳥の次の言葉を待つ。
が、その言葉がなかなかこない。不審に顔をあげると、金髪娘はなんとも複雑な表情を浮かべていた。

「……花鳥?」
「な、なんでもないわよ!」
「痛てっ! なんでいきなり怒るんだ、お前は!」
どういうつもりか、いきなり箒の柄で俺の頭を叩いた花鳥は、
理不尽きわまりないことに、その先端を俺に突きつけて逆ギレしていた。

「うるさいわね! そもそもライバル店から人を引き抜こうなんて、卑怯よ」
「そんなのわかってるよ。だから、引き抜こうなんて言ってないだろ」
「……っ! この……ヘッドハンティングする度胸もないの?!
 この根性無し! 甲斐性なし! へたれ店長!」
「だから、叩くな、蹴るな、直前と180度違う台詞を平然とのたまうな〜!」
一体どうして欲しいんだろうか、こいつは。
やっぱり、花鳥のことを素直に「お人好し」と呼ぶには、
この「理不尽」要素を取り除く必要があるのではあるまいか―――って、いい加減、痛い。

「ああ、もう何なんだお前は!」
ぱし、とタイミング良く、振り下ろされた箒を受け止めると、
花鳥に向かって、勢いよく声を張り上げる。

「じゃあ、声をかけたら来てくれるのか、お前は?!」
「行くわけ無いでしょ! 何を考えてんのよ」
「そうだろ? だから、諦めてるんじゃないか」
「それが根性なしって言ってるのよ!」
「お前は一体俺にどうしろと言ってるんだ!」
「! そんなの自分で考えなさいよ!」
「あのな」
「大体、あんたは―――」
「大体、お前は―――」

「「……おはようございます」

「「え?」」
争いの真っ最中。いきなりかけられた言葉に、俺と花鳥は二人同時に振り返る。
そこには。

「……そろそろ朝礼の時間なんだけど。いつまで立っても返ってこないから」
「同じく。あと往来で大声で喧嘩は流石にどうかなーと」
里伽子と川端さん。見慣れた二人の顔があり―――。

朝っぱらから、なにをやってるんだ、お前らは。

と、酷くあきれ果てた視線で俺と花鳥を見つめていた。




/4.

「相変わらず仲がよろしいことで」
「済みません」
「時と場所と声の大きさを考えなさい」
「はい」
「反省してる?」
「しております」
一日が終わり、閉店後のスタッフルーム。
花鳥との口喧嘩に関して、俺は里伽子に「これでもかっ」っていうほどにお説教されていた。

「……ホントに、花鳥さんと仲がいいんだ。仁」
「……いや、朝の喧嘩をみて、その感想は流石にどうかと思うぞ?」
「……」
「……あれ? 俺、変なこと言った?」
「まあ、仁だから仕方ないか」
「なんだよ、それは」
「そういうこと訊く辺りが、仁らしいなってこと」
呆れた、と言った表情でため息をついた里伽子は、
やや間をおいてからその表情を真剣なものへと改めた。

「……それで?」
「ん?」
「だから、本当に花鳥さんのこと、ヘッドハンティングするつもりだったの?」
「いや、それは考えてなかったけどな」
あれは完全に花鳥の言いがかりだから―――と思いつつも、
つづけた言葉には、本音が混じって転げ出ていた。

「まあ、店長としてはあいつみたいな人材は欲しい。それに」
「……それに?」
「それとは別に、あいつと由飛の仲直りのきっかけぐらいは作ってやりたい」
「お人好し」
「花鳥にも言われた。あいつには言われたくないんだけどな。
 ついでに言えばお前にも言われたくない台詞」
「私だって、仁にだけは言われたくない」
そう言いながら里伽子は小さく肩をすくめて笑うと、今度は優しい表情で問い掛けてくれた。

「それで店長さんとしては、良い作戦でもあるの?」
「残念ながら皆無だ」
というか、朝にさんざん暴行をうけたばかりだし。
どうにもあの姉妹には振り回されっぱなしになりがちだ。

「ということで、参謀長。
 何か思いついたらよろしく」
「……もう」
我ながら情けない台詞。
だけど、俺と里伽子の間では、すっかり慣れ親しんだ関係を示す台詞だったから。

だから、返ってくる言葉なんて、たった一つしかなく。

「しょうがないなあ、仁は」
くすり、小さく。でも、本当に嬉しそうに里伽子は笑ってくれた。

「何か考えがあるのか?」
「効果的じゃないけど、きっかけぐらいにはなるかも知れない。それに……」
「それに?」
悪戯っぽく微笑んで、小さく舌を出した。

「もし、本当に玲愛さんを引き抜ければ、こちらの問題はかなり片づくし、ね」





そして。数日後。
里伽子の計画により、ファミーユとキュリオの間で、ある一つの協力関係が結ばれることになった。




/5.

「どういうことなんですか! これは!」
普段の開店前の雰囲気とは打って変わって、キュリオ店内は様々な感情にざわめいていた。
その空気の中に、玲愛の声が怒気を孕んで響く。

「いや、どういうことって言われても。今言ったとおりだよ」
怒りの声をたたきつけられた本人―――つまりは、キュリオの店長たる板橋は、
いつものように困ったような表情を浮かべたまま、やはり、いつものように飄々たる態度で言葉を紡ぐ。

「今日から一週間、研修生を受け入れることになりました。
 みんな、よろしくしてあげてね。はい、自己紹介」
板橋の台詞と視線の先には、緊張の面持ちで、キュリオの制服に身を包んだ少女が一人。
「研修生」と紹介された彼女に、キュリオのスタッフからは戸惑いや好奇の視線が注がれていく。

そんな空気の中。僅かに怯むような表情を浮かべた彼女は、
しかし、即座にその感情を振り払い、良く通るその声を緊張に振るわせながらも張り上げた。

「か、花鳥由飛です! 短い間ですが、お世話になります。
 不束者ですけれど、よろしくお願いします!」
「うん、元気があって良い挨拶だね。こちらこそよろしく」
由飛の挨拶に、板橋はにこやかに笑いながらパンパンと手を打った。
元気の良すぎる挨拶に、最初は拍手もまばらだったが、それは次第に大きくなり。

パチパチパチ……、と。
キュリオのスタッフから、ファミーユの看板娘である花鳥由飛へ。
歓迎の拍手が降り注いでいった。

―――無論、その拍手に同調しなかった人物もいるわけではあるが。

「だから、店長! 無視して話を進めないでください!」
先ほどから、その「研修生」とは微妙に視線をずらしたまま、
花鳥玲愛は、店長に掴みかからんばかりに詰め寄っていった。

「一体どういうコトなんですか、これは!」
「だから、言ってるじゃない。研修だよ、研修。
 ファミーユさんの熱意にほだされてね」

「うわあ、店長が熱意?」
「とたんにうさんくさくなりましたね……」
「そこ。水を差すんじゃないよ」
キュリオのスタッフである芳美とひかりの突っ込みに、板橋はいじけたように口を尖らせる。
その板橋に、玲愛は更に頬を紅潮させて声を荒げた。

「研修なんて、そんな話きいてません! 私に勝手に研修なんて引き受けないでください!」
「いや、だってさ。前もって相談したら反対しただろ?」
「当たり前です! どうしてライバル店の研修をウチが引き受けないといけないんですか!」
「そういうと思ってね。だったら、内緒で決めるしかないじゃない」
「あなたって人は……っ!」
「そんなに怒らなくても良いじゃない」
一体、どっちが店長なのか――などという疑問は、キュリオのスタッフは浮かべずに、
ただ興味津々と言った視線でチーフと店長のやり取りを見守っている。

「ちなみに川端君には相談したんだけどね。
 直前まで黙っていた方が面白―――いや、無難だろうと」
「みーずーなーっ!」
板橋の言葉に、玲愛は怒気を振りまく眼差しで店内を見渡し、

「……って、あれ?」
そして、怒りの拳を向けるべき相手がいないことに気付いて声を上げた。
そんな彼女の疑問に、板橋はにやにやと楽しげな笑みを浮かべつつ窓の向こうを指さした。

「ああ、川端君なら―――」




「ということで、これから一週間お世話になります、川端瑞菜です。
 ご面倒をおかけするかもですけれど、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしく」
彼女の挨拶に、俺はぱちぱちぱち、と手を叩き、みんなもとりあえず続いてくれた。
が、その拍手が一段落したあと、いくつかの呆れた視線が、俺に突き刺さった。

「しかし、本当にやるとは。私情で研修なんていうのは正直どうなのよ」
「うっ」
にやにやと笑みを浮かべつつ、しかし溜息混じりの息をつくかすりさん。

「てんちょ、やっぱり由飛さんに甘過ぎ」
「ううっ」
む〜、と不満げに頬を膨らませるのは明日香ちゃん。

「みんなあんまり仁君をいじめちゃだめよ? ……意見には同意だけど」
「うううっ」
困ったような笑顔で二人を窘めつつ、最後の一言だけは真顔で告げるのは恵麻姉さん。
この研修の目的は、どうやらファミーユの一同には、あっさりと見抜かれている用だった。

「あはは。皆さん、仲良しですよねー」
「笑ってないでフォローしてくれよう」
にやにやと、楽しげに俺がいじめられる光景を眺める川端さん。
流石に花鳥の親友だけあって、なかなか良い性格をしていらっしゃるようだった。

「みんな。ちょっと訊いて」
「里伽子」
いいように弄られ続ける俺の傍ら、この計画の発案者が、進み出て口をひらいた。

この計画―――つまりは、ファミーユとキュリオの間での人材交流。
そんな冗談みたいな計画を提案し、そして実行に移してしまった里伽子は一同を見回しながら確認するような口調でいった。

「この研修が仁の、店長の私情丸出しの動機によって発案されたことはご想像の通りです」
「…………」
もはや何も言うまい。そう決めて、俺はただ一人、泣いた。
その俺を横目で一瞥しつつ、里伽子は窓の外―――キュリオに軽く視線を移して続ける。

「ですが、説明したとおり、理由も意味もあります。
 キュリオの接客のレベルは、総合的に見ればやっぱりファミーユより上です。
 だから、そういうレベルの高い店で働くことは絶対にマイナスにはなりません」
里伽子はそう言いながら一歩進み出て、真剣な眼を川端さんに向けて頷いた。

「キュリオのスタッフを受け入れることにしてもそう。
 キュリオの仕事のやり方は参考になるはずですし、
 あたらしい人を、受け入れて指示を出すにはどうしたらいいのか。
 そういった経験を積める意味も含めて、ウチのメリットは大きいはずです」
「いやあ、そんなに持ち上げられると照れちゃいますね」
あはは、と珍しく恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる川端さん。
と、その彼女を見つめていたかすりさんが、ふと首を傾げて手を挙げた。

「リカリン、ちょっとしつも〜ん」
「はい、かすりさん」
「建前上とはいえ、ファミーユ側のメリットは納得してたんだけど。
 でも、キュリオさんにしてみればなんのメリットがあるわけ?」
「え?」
「あ、そういえば。ウチにしかメリットがないのなら交換研修なんて成立しないよね?」
「それは……」
かすりさんの質問に、明日香ちゃんが頷きを重ね、
そして、何故か、川端さんの表情が気まずげに曇っていく。

「……川端さん?」
「えーと」
「勿論、キュリオさんにもメリットはあります」
戸惑う彼女を尻目に、里伽子は毅然とした表情のままかすりさんに向かって頷いた。

「なになに? 恵麻さんのお菓子が食べ得られるってこととか」
「あ、それ、いいですね」
「てんちょのオムライスが食べられるって事?」
「かなり楽しみにしてますよ〜。私の似顔絵も描いて下さいね」
「仁君と一緒に働けること?」
「あはは、私はジュリエットには向いてないんで、そういうのは玲愛に譲ります」
数々の問い掛けに、笑いながら答える川端さんだったが、
その態度からそのどれもが正解ではないことは容易に知れた。

が、しかし、そんな川端さんのはぐらかす態度もむなしく。
里伽子は淡々たる声で、うっすらと笑みを浮かべつつ、その答を口にした。

「地獄のような劣悪な労働環境で働くことは、きっと良い経験になるだろうって事で
 キュリオさんからは納得して頂いてます」
「「「……地獄?」」」
「あ、あはは……」
しん、と。
店内の空気が一瞬にして冷え、そして一斉に含みのある視線が川端さんに突き刺さった。

「わ、私が言ったんじゃないですよ?!」
「川端さん」
「は、はい?」
みんなの視線に狼狽える彼女の肩を、ぽん、と叩いて俺は優しく微笑んで上げた。

「頑張ってね」
「フォローしてくださいよー!」




/6.

「……というわけで、川端君はファミーユで研修中だよ」
「み・ず・な〜! 覚えてなさいよ……っ。高村の奴も調子に乗って〜っ!」
ぎりぎりと歯ぎしりが聞こえてきそうな剣幕の玲愛に、
板橋は小さく苦笑しつつ宥めるような仕草で言った。

「まあまあ。他店で働いてみるのも良い研修になるよ」
「だから、そういうことを勝手に決めないでください!」
「ああ、ちなみに本店の結城店長は二つ返事でOKしてくれたよ?」
「ウチの店長達って……」
板橋の台詞に、玲愛は軽い目眩を感じて額を抑える。
その隙をつくように、板橋はぱん、と軽く手を叩いてスタッフ一同に声をかけた。

「ということで、今日の朝会は終了」
「店長! まだ話は―――」
なおも食い下がろうとする玲愛だったが、その言葉を遮って板橋は時計の針を指さした。

「ほら、もう時間がないよ」
「くっ……」
時計が告げる回転までの猶予に、舌打ちを一つ残して、玲愛は表情を引き締めてスタッフ一同に向き直る。

「ええい、これで朝会を終わります! 各自、開店準備開始!」
「今日も一日、頑張っていこう」
「「「はーい」」」
玲愛と板橋のそれぞれの言葉に、スタッフは口々に答えて、持ち場へと散っていく。
チーフである玲愛も開店準備のためにフロアの方へと向かおうとして―――。

「ああ、それとカトレア君」
「……なんですか。今、ひっじょ〜に、忙しいんですけど。
 あと、カトレア言わないでください」
剣山のごとく刺々しい言葉と態度ではあったが、
それでも店長の言葉を無視せずに振り向くあたりが花鳥玲愛という人間の真面目さだろう。

「そんなに睨まなくてもいいじゃない」
「ご用件は?」
「つれないなあ」
「無いのでしたら、失礼します」
と、義務は果たしたとばかりにさっさと踵を返そうとする玲愛を、ごめんごめんと謝りつつ板橋が呼び止める。

「大事な用件なんだよ、玲愛くん」
「……なんなんですか。私は忙しいんです」
「気付いてない振りを続けるみたいだから、言うけどさ。
 由飛くんの世話、君に一任するからよろしくね」
「なんでそうなるんですか?!」
「新人研修はチーフの仕事でしょ」
「そんなの瑞菜に……って、いないのか」
姿のない友人に、玲愛は忌々しげに舌を打つ。
わざわざ「交換研修」なんてマネをしたのは、あるいはそこまで図ってのことだったのか。

「そういうこと。じゃ、よろしく」
「あ、こら、逃げるな! 大体、研修はあなたが勝手に―――」
呼び止める声はむなしく。

「喧嘩している時間はないよ? あと文句は仁君が引き受けてくれるから」
飄々とした店長は、飄々とした態度のまま、無責任きわまりない台詞を残して立ち去ってしまった。

「ちょ、ちょっ―――と」
そしてミーティングの場所に残されたのは、二人の姉妹。

「……」
「……」
微妙な空気が、二人の間に漂った。
フロアで、キッチンで。
開店に向けた作業に、店内の空気が動き始めている中で、二人の姉妹だけが取り残されていた。
だが、それが事実ではないことに気付いて玲愛は辺りに視線を向ける。

(……なによ、これ)
そう。彼女たちは、実際には取り残されてはいなかった。

ざわざわとした喧噪。だれも二人に声を掛けようとはしない。
でも、意識をされていないわけじゃなかった。
だれもが自分たちに意識を向けていることに気付いて、玲愛は―――困惑する。

(なんなのよ、これは)
悪意や好奇の視線。
向けられていた物が、それをなら、彼女は毅然と対応できただろう。

だけど、違った。
芳美やひかり。彼女たちをはじめとして、信頼の置けるスタッフ達から感じる視線は、なにか違った。
この雰囲気を形容する言葉。
それは、この時、玲愛の脳裏には浮かばなかった。

―――多分。
それは彼女が混乱の極みにあったからだろう。
自分が当事者でなければ簡単に思いついた筈の簡単な言葉で、その空気は形容できた。

つまり、みんなが向ける視線は。

   『見守る』ための視線だったから。

「……れ、玲愛ちゃんっ!」
「―――っ!」
そして、沈黙は、由飛の。姉の方から破られた。
緊張を押し破った眼差しで、玲愛の見つめて。
緊張に強ばった声を、ただ必死に震わせて。

「わ、私……、ちゃんと頑張るから!」
「ちょ……、由飛!?」
「怒られたって、逃げたりしないから!」
「こ、声が大きい……っ!」
「だから、その……ご、ご指導よろしくお願いいたします!」
「……由飛」
深々と一礼する由飛の頭に、玲愛は軽く瞳を閉じた。
なんだって、こんな事態になっているのか。
頭の中で現状と原因を想像して、そして、即座に在る一人の男の顔が思いつく。

間違いない。
あいつが、全部悪い。
こんな、質の悪いこと仕込む奴なんてアイツ以外にいるわけが―――っ!

(……っ!、……っ!、……っ!)
想像の中で、とりあえず高村仁にリバーブロー、ガゼルパンチ、デンプシーロールという
三連コンポをきめてノックアウトしてから、玲愛はやがて観念したように、息をつき、声を上げた。

「ああ、もう、わかったわよ」
「玲愛ちゃん!」
「チーフ!」
「え?」
がばっ、と頭を上げて瞳を輝かせた由飛に、玲愛は鋭く指を突きつけた。
きょととした舌表情で、その指先を見つめる彼女に、玲愛は毅然とした声で告げる。

「だから、私のことはちゃんとチーフって呼びなさい」
「え、えぇ?」
「返事は?」
「うん」
「返事は、はい!」
「は、はい!」
「こうなったら、手加減なんかしないんだからね」
「……はいっ!」
騒々しい姉妹の遣り取り。
その喧噪を横目で見ながら、芳美とひかりは目を見合わせていた。

「うまくいくかな」
「大丈夫ですよ。きっと……」

「じゃあ、まずは掃除! 念入りに、でも手早くね」
「ええ、難しいよう?」
「口答えする間に、手を動かしなさいっ!」
「は、は〜い!」

「うまくいくよね」
「ええ、大丈夫ですよ。きっと……」



そうして、そんな冗談みたな交換研修が、はじまった。




/7.

「それで、そっちはどんな感じ?」
「二人とも頑張ってます」
「ええ。由飛さんも、チーフも」
交換研修の開始から3日目。

由飛の様子―――正確には、花鳥姉妹の様子が気にかかっていた俺は、オープンスペースの片隅で
キュリオのスタッフである芳美ちゃんとひかりちゃんから、様子を聞いていた。

店の外からでも店内の様子はうかがえるけれど、
玲愛の奴なら、お客様の目の届くところで叱責の声を張り上げたりはしないだろうし、
知りたいことは店の外にいたんじゃ分からない、ということで。

「由飛の奴、迷惑かけたりしてないか? 皿を割ったりとか、歌ったりとか」
「迷惑なんて、そんなことないですよ……歌ってはいますけど」
「そうですね。由飛さん、凄く頑張ってます……歌ってはいますけど」
「へえ」
意外―――とは、実は思っては居なかった。
実際、人員的にキュリオよりきついファミーユで、
今まで、やってきたんだ。花鳥や川端さんには及ばないまでも、
他のスタッフにそうそう引けを取るとは思ってはいなかったから。

……まあ、「歌うな」という命令は既に
  由飛にとっては「息をするな」と同じレベルの命令だから、目をつぶろう。

「それで、実際にあの二人はどんな様子?」
「そうですねー。チーフはかなり、厳しいですよ」
「こんな感じでしょうか……」


/研修模様

「動きが遅い! 次のことも考えながら動きなさい」
「ご、ごめんなさい〜」

「目に付いたことからやればいいってものじゃないの!
 ちゃんと優先順を考えて動きなさい」
「は、はい〜」

「ああほら、人の動きもちゃんと見る!
 ひかりが奥に言ったんだから、フォローできる場所に移動!」
「ごめんなさい〜」

「言っておくけど、キュリオの食器は全部本物のアンティークだから。
 割ったりなんかしたら、その日のお給金がなくなると思ってなさい」
「こ、怖いこといわないで〜」

「決まった作業もあるんだから、ちゃんと動線を考える!
 勢いだけで突っ走るなんて言語道断だから」
「気をつけます〜」

「オーダーで一々、歌うな〜!」
「ご、ごめんなさい〜! つい癖で〜〜〜」
「だから、歌うなっ! 喧嘩売ってるのかあんたは!」
「あ〜ん。ごめんなさい〜〜」



「……とまあ、こんな感じで」
「フロアから戻る度に、なにか指摘されてる気がしますね」
「そっか」
二人の説明に頷きながら、その光景を頭の中に思い浮かべてみた。
なんだか、面白いほど二人の様子が浮かんで来て、我ながら苦笑しつつその光景を眺める。

注意する言葉は、固い口調で。
声を掛けるときでも、目を合わせることもない。

それでも……、無視はしていない。

それに―――

「……よく見てるよな」
「そうなんですよ」
「元々、隅々まで注意されてる方でしたけど……」
「チーフだって、いつも以上にきびきび動いてるんですよ。
 なのに由飛さんが何かしたら直ぐにわかるんです」
それは……良い傾向なのだろう。
なんとなく横目で由飛の動きをおっている花鳥の様子を思い浮かべて、口元が緩む。
そんな俺の態度に、芳美ちゃんとひかりちゃんは僅かに首を傾げたが、あまり気にせずに二人の話を続けてくれた。

「それに……由飛さんに対しての指摘って、レベルが高いんです」
「そうそう。聞いているこっちが、ドキッてしちゃうぐらい」
……なるほど。
由飛の接客レベルがそこそこなのに気付いたら
今度はキュリオのスタッフの意識の引き締めに使ってるという訳か。

「抜け目がないなぁ。流石だ」
「はい?」
「いや、流石にキュリオさんは一筋縄ではいかないなあってね」
花鳥の奴もね。
流石だなあ、と素直にあいつの性格と根性と頭の良さを賞賛しながら、俺は二人に向かって頭を下げた。

「ということで、こっちも頑張るかな。
 ごめんな、仕事の邪魔しちゃって」
「いえいえ。お気遣い無く」
「あ、それよりファミーユの店長」
「うん?」
「私たちもファミーユで研修をうけるんですよね?」
「うん。そういう話になってるけど」
なんだか期待に満ちた芳美ちゃんの眼に、少し戸惑いつつも首を縦に振る。
すると二人は、嬉しそうに表情を綻ばせて小さく笑いあった。

「やった。楽しみ」
「ええ。ちょっと楽しみです」
「え? そう」
「はい。だって、賄いってあのオムライスですよね」
……楽しみなのはそういうことか。

「はいはい。どうせウチの魅力はその程度ですよ」
「あ、いじけた」
「いじけてなんかいないやい!」
「いじけてるじゃないですか。って、でも本当にそれだけじゃないですってば」
「ええ。由飛さんを見ていると、ファミーユが素敵なお店だってわかりますから」
微笑みながらフォローを入れてくれる二人。
誤魔化されている気がしなくもないが、今は二人の言葉を信じることにしよう。
……まあ、いろいろ協力して貰ってるしね。

そう俺が納得していると、芳美ちゃんが思いついたようにもう一人の研修生に話題を変えた。

「それで、そちら川端さんは?」
「……いびられてる」
「え?」
「ええ?」
率直な俺の言葉に、驚きの声を上げる彼女たち。
その二人に、俺はオープンスペースの光景を黙って指さした。





「ほらほら、研修生〜。地獄の亡者のように働きなさい〜」
「ひ〜ん」
「泣いたって、地獄からは出れないのよ〜」
「だから、私が言ったんじゃないのに〜」 




「あんな感じ」
「が、頑張ってますね……川端さん」
「な、なんで? なんで地獄になってるんですか?!」
「まあ、板橋さんの迂闊というか、恣意的な発言なお影で。
 ……大変だよなあ。川端さん」

「だから見てないでフォローして下さいってばあ!」
「ほらほら〜、さぼってんじゃないわよ〜」

「あんな感じ」
「「……」」




/8


―――そして。

慌ただしく、その日々は過ぎていき。
交換研修が始まって、5日が過ぎた。



「じゃあ、ミーティングはこれまで。今日も一日、お疲れ様でした」
『お疲れ様でした〜』
閉店後に開かれるキュリオのミーティング。
その終了を告げる玲愛の言葉に、一同が声を揃えて席を立つ。

一日の労働からの開放感にざわめく店内で、
しかし、玲愛は椅子に腰を下ろしたまま立ち上がろうとしない。

「……チーフ?」
その様子を目にとめた芳美の声に、一瞬、玲愛の表情に逡巡する色が浮かぶ。
だが、次の瞬間には彼女は、意を決したように表情を引き締めて―――、その名前を呼んだ。

「…………由飛さん」

「え? は、はいっ」
ひかりと何か言葉を交わしていた由飛は、いきなりの呼び掛けに
小さく飛び跳ねるようにして慌てて振り向いた。
その大仰な由飛の反応に、玲愛は小さな溜息をかみ殺して、努めて平静な言葉で告げる。

「お話がありますので、ちょっと残ってください」
「え……?」
玲愛の声に浮かぶ、いつもと違うもの。
それを感じ取って、由飛の声も揺れた。

いままで。
玲愛は、就業時間が終われば、やっぱり由飛とは関わろうとしなかった。
その彼女が、覚悟を決めたような視線で、由飛を見つめていると言うことは、つまり。

そんな思考に呆然とした由飛の態度を、
あるいは不服の態度だとおもったのか、玲愛は険のある目つきで語調を強めた。

「な・に・か・も・ん・く・で・も?」
「あ、ありません」
「……よろしい」
由飛の返事に頷くと、ふたりに集まっている視線に気付いたのか、
軽く咳払いして、芳美とひかりに手を振った。

「ほら、他のみんなは帰ってね」
「はい」
「お先に失礼します」
二人は銘々に挨拶しながら、由飛の横を通り過ぎる。
そして、小声で囁くように言った。

「由飛さん。頑張ってね」
「大丈夫ですよ。きっと」

「……うん」
二人の言葉に、ありがとう、と頷く由飛。
その彼女を背後に残してフロアを出る瞬間。

芳美とひかりは軽く目を見合わせて、玲愛に向かって、気付かれないように手を振っていた。


『頑張ってください。チーフ』


そう、心の中で告げながら。




「お疲れ様」
「あ、ありがと」
人の居なくなったフロアに、玲愛が淹れたコーヒーの香気が漂った。
キュリオの雰囲気とも相まって、深く落ち着いた空気をその香りが紡いでいく。

「……」
「……」
本来、心安らぐはずのその雰囲気の中。
時計の針が時を刻む音と、二人の息づかいだけが夜の空気を揺らしていた。

「……」
「……」
無言のまま、コーヒーに手を付ける出もなく。
おそらく相手の言葉を待ちながら、それでも自分から言葉を言い出さないといけないとわかっている二人。

それは、いままでずっと二人が繰り返していたカタチに似て。

それを。

「え、えーと」
「―――っ」
それをもう繰り返したくないとそのカタチを壊したのは、姉の方が先だった。

「それで、話ってなんなんでしょう。チーフ?」
「……いいわよ。玲愛で」
「え?」
「もう仕事じゃないんだから、玲愛でいいわよ……由飛」
意を決して声を掛けた由飛に、返されたのは意外な言葉。
思わず呆けた声と表情を浮かべる由飛に、玲愛は小さく息をついてコーヒーカップに軽く指を触れた。

「ファミーユのこと……、由飛のこと。舐めてた訳じゃないけど」
そこで一度言葉を切り、そして躊躇いを押し殺すように由飛の目を見つめる。

「ここまで仕事をこなせなんて思わなかった……正直、ちょっと見直した」
「玲愛ちゃん……」
じわり、と胸に広がっていく感情に、由飛の声が震える。
目頭が熱くなりかけた感覚に、誤魔化すように由飛が勢い込んで言った。

「わ、私だって、驚いたよ」
「驚いたって……何に?」
「玲愛ちゃんってほんとうに、何でもできるんだなあって。うらやましかった」
「……っ」
うらやましい。
由飛が口にした言葉に、少し声がつまった。
何故なら、その言葉を、口にしたいのは。

いつだって、自分の方だって思っていたから。

花鳥由飛という少女は天才だって知っている。
いつだって自分に手の届かない場所に、鼻歌交じりで駆け寄って、そして届いてしまうから。

旋律を。
人の心を。
花鳥玲愛に触れられない物を、つかみ取ってしまうから。

「……由飛」
本音を言えば、この一週間だって、その感情が無くなった訳じゃなかった。
あっという間にキュリオに溶け込んでしまった由飛を見て、
どこか羨望のような感情が、心に影を落していたことを玲愛自身が気付いていたから。

―――でも、それ以上に。

「そんなの当たり前でしょ。
 これでも私はキュリオのチーフなんだから。研修生に負けてたまるもんですか」
「あ〜、酷い言い方〜。さっきは褒めてくれたのに」
「ちゃんと褒めてるわよ。本当に……頑張ってるんだなあって」
本当に……この一週間。
叱責の言葉に。辛辣な態度に。
「私の領域」から遠ざけるための態度から。

―――花鳥由飛という少女は、逃げなかったから。

決して逃げ出さなかった彼女のその努力が、玲愛の心に影よりも温もりを届けていた。
その温もりを噛みしめるように、僅かに目を伏せて。玲愛は由飛にゆっくりと問い掛ける。

「……どうして」
「え?」
「どうして、こんなことやろうと思ったわけ?」
こんなこと―――つまりは、交換研修。
高村仁と板橋店長が画策した企画が、実は自分たち姉妹のためだったなんてとっくに玲愛は気付いていた。

でも、それでも尋ねずにはいられなかった。
どうして、こんなことになったのか。

そしてそれ以上に、訊きたかった。

そもそもどうして彼女が、ウェイトレスなんて、しているのかって。
それがずっと。心の何処かに棘を立てていた。

接客になんか、向いていない。
レジになんか、向いていない。
料理なんてもってのほかだし。
それになにより。

「だって……玲愛ちゃんと、仲直りしたかったから」
「……」

―――そんな努力なんて、似合わないのに。

だから、自分は此処にいた。
由飛は嫌なことからは逃げるって知っていたから。

でも―――、今、ここに由飛が居てくれるということは。

「わたしも、そのはじめは無理だって思ったんだけど。
 でも……頑張らないとだめだって、思ったから」
才能じゃなくて。努力で。
向かってきてくれたっていうこと、だから。

「―――そう」
……それが、素直に、嬉しかった。

「……」
「……」
そして、また二人の姉妹の間に沈黙が落ちる。
お互いに、少し胸が詰まって何を話せばいいのかわからない故に、産まれた不器用な沈黙。
でも、その言葉内空間は、今は身を付くような痛みに満ちてはいなかった。
そして。

「……由飛、姉さん」
「―――っ」
今度は、妹がその沈黙に終わりを告げる。
長らく呼んでいなかった―――その人と自分との関係を示す言葉で呼び掛けて。

「ありがと。頑張ってくれて」
「じゃ、じゃあ、仲直り……してくれる?」
「仲直りも何も……私は別に怒ってなんかいないわよ」
「でも……」
「由飛、姉さん」
勢い込む由飛を、まだぎこちない響きの言葉で呼んで玲愛が押しとどめた。

勝てないとわかったときから。
彼女が踏み込んできたら、知らず、その分だけ引いていたのかも知れない。

近づかずに。
それでも突き放そうと阻止無いまま、埋まることの無かった二人の距離。

でも、それを繰り返すために押し戻すほど花鳥玲愛という少女は、もう弱くない。

「焦らなくても、大丈夫だから」
勝てないことはある。
あの場所から、立ち去ろうと決めたときに、それを知った。

でも「この場所」でまで、負けたりはしない。
あの時から、積み重ねてきた物は、誰にだって胸を張ってみせる。

「私も、もう……逃げたりしないから」
だから、焦らずに。少しずつ。
本当の姉妹じゃないけれど。でも、本当の姉妹より、心が近づけるように。
相手のことをうらやむ心を、いつか、自分を許して上げられる時がくるように。

いつか、その距離をなくすように近づいていこうと決めて、差し出された手を。

「……うん。そうだね。また、お話、しようね?」
「うん」
二人の姉妹は誰もいない喫茶店の中で、微笑みながらその手を握った。


焦らずに。少しずつ。
そう決めた姉妹達が、その一歩を共に踏み出すように。


/9,

「まあ、結果としては上手く行ってるんじゃないかな」
玲愛が由飛に居残りを命じていた、その頃。
ブリックモールを見渡せる橋の上で、俺と里伽子は、板橋さんからその事実を聞いていた。

「そうですか」
その話に、俺はよかった、と小さく息をついた。
あの二人には酷な計画だったけど、それでも仲直りの切っ掛けになったのなら、嬉しかったから。
と、そんな俺の顔を眺めながら、板橋さんがなんとも言えない表情で小さく笑った。

「しかし、相変わらずファミーユさんの考えることは面白いね。
 人材補強より花鳥姉妹を気にするところがいかにも仁君らしい」
「……計画したのは板橋さんと里伽子でしょう?」
「でも発端は仁君だろ?」
「うっ」
何の迷いもなく核心を言い当てる板橋さんに、言葉に詰まる。
その俺の傍らで、里伽子も感心したような呆れたような面持ちで板橋さんに言葉を向けた。

「でも、キュリオさんこそ本当にノリが良いですよね。
 断られるとは思ってませんでしたけど、ここまで協力的なのは予想してませんでした」
里伽子の言葉に、板橋さんは小さく笑いながら肩をすくめた。

「別に反対する理由はないよ。いろんな所で働くっていうのは良い経験だからね。
 それに狼狽えるカトレア君なんてレアだからね〜」
「……可能性は考えなかったんですか?」
「里伽子?」
あくまで飄々とした板橋さんの態度に、里伽子は僅かに眼を細めた。
探るような―――あるいは詰問するような里伽子の言葉に、しかし、板橋さんは動じることもなく、
あっさりと彼女の意図を読み取っていた。

「ああ、玲愛君が引き抜かれる可能性かい?」
「まさか」
「そんなこと―――」
あるはずないだろう、と俺が言い終わる前に。

「別に考えなくもなかったけど。いいんじゃない?」
「え?」
あっさりと頷いた板橋さんは、煙草を取り出して火を付けた。

「まあ、彼女は義理堅いから。そうそうは移ったりはしないだろうけどね・
 でも、もうそれがいいと決めたのなら、それは玲愛君の問題だからね。
 僕がとやかくいうような問題じゃないよ」
「死活問題じゃないんですか?」
「……大変にはなるだろうね」
玲愛が抜けた事態を想像したのか、板橋さんは心底、憂鬱そうなため息を一つ。
しかし、それはいってみればいつもの彼と変わらぬ笑顔で。

だから、板橋さんの次の台詞もまた、いつも通りの彼の―――本心なんだろう。

「まあ、その時はその時。
 あまりキュリオのいい加減さを甘く見ないで欲しいな」
「お見それしました」

いい加減さを甘く見るな。

それは、いい加減でも何とかなるということであり、
つまりは、なんとかするだけの力がキュリオにはあるという自信の裏返し。

なんだかんだで、彼が店長をやっているには理由があるのだろうとは思っていたが、
その片鱗をみたような気がして、俺と里伽子は目を見合わせて頷きあった。

「で? ファミーユさんとしてはどうなの?」
その俺達に、今度は板橋さんの方がやや眼を細めて問い掛ける。

「引き抜き、ですか?」
「そう。結局、今のままじゃ問題の解決にはなってないじゃない。
 そっちの人材不足も、あの姉妹の関係修復も、ね」
「それはそうですけどね」
そう、問題はなにも解決していない。
明日香ちゃんの抜ける孔は勿論うまっていないし、あの二人の関係だって、
これで全て元通り―――なんて訳にはいかないだろう。

でも。今はそれでも構わない。

「しばらく考えてみます。今はまだ様子見をする時間ぐらいはありますから」
「でも、取りに行くと決めたら、本気で取りに行きますからね」
俺と里伽子。
並んでそう答えた俺達に、板橋さんは、にやりと口元をつり上げて笑った。

「良いコンビだね。君たちは。
 仁君、里伽子ちゃん、大切にしなきゃダメだよ?」
「……はい。わかってます」
「恵麻さんのことは僕に任せてくれればいいからさ」
「だから、オチはいらんといっとるだろうが!」
と、きっちり落ちを付けてから、板橋さんは軽く手を挙げてから俺達に背を向ける。

飄々としたあの笑顔の裏、一体何を考えているのやら。
立ち去っていく背中から、その真意を見通すことは出来そうにはなかった。

……まだまだ、未熟かな。

そう思って息をつく俺の手を、そっと里伽子が握ってくれた。

「大丈夫。焦らないで」
「……そうだな」
背負うべきものは、多すぎて。歩くべき道は、遠すぎて。
だから、一歩一歩を確実に歩いていくしかできないけれど。

誰も彼もが問題を抱えたままだけど。
でも、みんなが傍にいるから、だから焦らずに、精一杯、前を向いて。


いつか。
必ず、見つめ続けた背中を追い越してみせるから。





更けていくブリックモールの夜に、そんな願いが溶けて消えていった。





作者コメント


 戯画祭り開催おめでとうございます〜、ということでパルフェSSで参加させて頂きました。
 当然のように里伽子END後のお話ですが、主役は里伽子じゃなかったりします。
 ともあれ、少しでも楽しんで頂けたら幸いです。

Written by 須啓