第二話「お隣さん、判明する」

 授業が終わったら帰りのホームルームがあり、それが終わったら部活動である。まあどの部活にも所属していない帰宅部の人間はさっさと帰るんだろうけど、俺は幸か不幸か転入初日から『歴史研究部』とかいう名前だけは真面目で堅苦しそうなクラブに入部したので、ついさっきまで部活動をしていた。まあ『部活動』と言ってもほぼだべっているだけだったが。しかも一応歴史と関係していたけど、割としょうもない話を。
 五月もそろそろ半ばとなり、大分温かくなってきたとは言ってもこの時間になると日は暮れ始めている。そして、そんな暗くなり始めた空の下で家路についているわけだ。
 三人で。
 いや、街灯や周囲の家の明かりとかがあるとは言っても薄暗くなり始めた帰路である。慣れていればともかく、転入初日である今日は当然のごとくこの道を下校も初めてなわけである。心細いっちゃ心細いので、一人じゃないというのは嬉しいことなんだと思う。本当は。
 いや、『本当は』というかなんというか。
 三人――俺、新井木ミコトと何の偶然か同じ日に同じクラスに転入してきた、明るい美人のタイプな湖乃葉咲耶と物静かな委員長タイプの岩永姫子。同じクラスの転入生な美少女二人と一緒に下校、とか言うとどこのギャルゲかとという感じである。
 そのフォーメーションが三角形じゃなければ。わかりやすく図解すると
        姫子
 前  俺   ←   後
        咲耶
 こんな感じだった。ギャルゲではなくどこのRPGだという感じだった。
 ちなみにこの状態は校門出たときからずっとこうである。校門出るまではもう一人の部員であるところのサルもいたんだけど、やつはどうやら学校挟んで逆方向らしいので校門で別れた。何か別れ際に「頑張れよ!」とかやけに爽やかにほざきつつサムズアップして、ついでに鮮やかなウィンクまで決めていった。俺はそのうちヤツを殴る予感がする。グーで。
 まあさておき、そんなこんなで俺たち三人は一緒に下校してるんだけど会話が無いどころか一緒に歩いているのかどうかさえ怪しい状況だったりする。
 そんな状況が楽しいかと言えばそんなわけはなく、二人はどうだか解らないけど俺は楽しくない。と言うかさっきの図解を見て貰えばわかる通り、二人は俺の後ろに位置しているので落ち着かないことこの上ない。
 実はここまで五分近くこの隊形で歩いていて、その間全く会話がなかったりする。
 今更話しかけるのも若干の気合いがいるけど、このままというわけにはいかない。と言うかここから俺の家まで十分近くかかるので、二人の家がどこかはしらないけど最悪の場合十分近くもこのままでいることになるわけである。ごめん無理。
 そんなわけで俺は二人に気づかれないように、軽く深呼吸してから口を開く。
「並んで歩きゃない?」
 そして噛んだ。最悪だった。
 思わず走って逃げ出したくなったが、そうすると明日二人にどんな顔して会えばいいのかわからないので我慢する。
 幸いながら二人ともそこに触れる気はないらしく、俺と同じ気持ちだったのかどうかは知らないけど「そうね」「そうですね」と割と快く了承してくれた。
 そして横一列に並んで俺の左には咲耶、右には岩永さん。これなら端から見たらクラスメイト同士が仲良く下校しているように見えるだろう。ひょっとしたら「両手に花ね」とか思われたりするかもしれない。まあ確かに状況だけ見ると間違いなく両手に花なんだけど、何かちょっと違う気がします。
 いやだってほら。
 緊張感はさっきまでと変わらないし。
 いや、ひょっとしたらさっきより増しているかもしれない。
 横並びで歩いているのに無言というのもどうかと思うので、何か会話を試みようと思うわけだが。
「あー」
「……」
 とりあえず比較的話しやすい咲耶に声をかけようとそっちを向いたら、後頭部に視線を感じた。ついでに無言のプレッシャーも。
「えーと」
「む」
 それじゃあ、と思って岩永さんの方に声をかけようと思ったら後ろから不機嫌そうなオーラを感じた。
 どうせいと。
 暮れなずむ街の光と影の中、俺はこの上なく途方に暮れていた。





「じゃあここで」
「うん、また明日」
「それでは」
 そして結局のところ、並んで歩きはじめてから次に交わされた会話はこれだった。
 会話の内容からある程度は想像できると思うが、場所は俺の家の前。正確に言うと住んでいる部屋のあるアパートの前だけど。
 つまり、あれから十分近く無言のままだったわけだ。
 ヘタレとか言うな。自覚していることを指摘されると腹が立つ上にその通りなので何も言い返せない。
 ともかく、やっとこさ今日一日が終わった。転入の初っ端から思いのほか波瀾万丈だったけど、ようやく終わりである。
 まあ、いつもの転校だったら馴染むまでの数日は特に何も起きない、よく言えば平穏だけど悪く言えばつまらない日々を過ごすことになるので、それに比べればよしとしよう。
 転入初日から部活に入って、割と気のおけない友人も出来た。それに何より、今回は何故か女っ気もある。それを考えると今回は明日からが楽しみっちゃ楽しみかもしれない。そんなことを思って、鉄製の階段にカンカンと足音を響かせて自分の部屋へと向かっていると。
「ちょっと待ったあっ!」
 叫び声が響き渡った。
「え?」
 そして振り返ってみると、階下というか下の道路には声の主であるところの咲耶がこっちの向けてずびしと指をさしていた、
 でもその人差し指は俺の方を向いているわけではなく――いや、方向としては正しいんだけど指さしているのは俺ではなく。
「はい?」
 そう言って振り返っている岩永さんの方だと思う。
 ちなみにその岩永さんがどこにいるのかというと、俺の少し後ろ――アパートの二階に上る鉄階段の途中だった。
 まあ俺の方からは下でなんだかわなわなと震えている咲耶と、そっちを向いて多分いぶかしげな表情をしている岩永さんのつむじしか見えないわけだが。
 いや別につむじはどうでもいい。
「何しれっとミコトの後ついて行っているのよアンタ!」
 そう、それだ。この階段はこのアパート――コーポ笠木の階段がどこに続いているのかというと、まあ言うまでもなくアパートの二階である。
 つまりそれは。え?
 一つの結論に達して軽く混乱している間に、岩永さんは相変わらずの冷静沈着極まりない声で咲耶に答えを返していた。
「いえ」
「何よ」
「私の家もこちらですので」
「え?」
 まあ、そうだろう。この階段上るって言うことはここの二階に住んでいるってことであり。
「ええと、ちなみに岩永さんちって」
「二〇一号室です」
「ああ、そうなのか」
 なんだか納得したような俺の態度を見て、咲耶も何かに気づいたのか若干プルプルと震えながら俺に問い掛けてくる。
「ちなみにミコトの部屋って……」
「えーと、うん。二○二だな」
 階段を上って二つ目の、二階の真ん中に位置する部屋。
「じゃあ、お隣さんですね。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 どうやらお隣さんだと判明した岩永さんに礼儀正しくぺこりと挨拶をしてきたので、俺も同じように挨拶を返す。
「すみませんが、進んで貰えませんか? 新井木くんがそこにいると上れませんから」
「あ、ごめんごめん」
 そして岩永さんのもっともな指摘に返事をして二階に上ろうとしたが、もちろんそのまますんなり終わるわけはなく。
「『ごめんごめん』じゃないわよ! 説明しなさい、説明!」
「えー」
 あからさまに嫌な顔をしている岩永さんよそに、怒り心頭という感じの咲耶も階段を上ってきた。
 どうやら、今日はまだまだ終わらないっぽい。





 六畳二間とキッチン。バスとトイレも別。駅からは多少歩くけど遠いというほどではなく、ちょっと歩けばスーパーや商店街もある。実際に家賃を払っているのは親父なので高いのか安いのかはわからないけど、俺が住んでいるアパート――コーポ笠木はそんな物件である。
 親父は長距離トラックのドライバーをしており、一度出かけるとしばらく帰ってこなかったりするので、実質俺は一人暮らしみたいなものである。
 そんな状態なのは割と子供の頃からなので、前の学校の友人たちには「女とか連れ込み放題じゃん」などとからかわれたりもしていた。
 いや、俺だって健全な男子高校生だ。そう言うことを想像したことがないのかと聞かれると、確かにまあその、なんだ。色々妄想したことだってある。まあ威張って言えることではないけど、割と普通だと思う。繰り返し言うけど、俺だって健康な男子高校生なんだから。
「ええと、お茶。ペットボトルのだけど」
「おかまいなく」
「うん。いいからミコトもそこに座って。正座」
「はい」
 咲耶に言われて素直に座る。
 まだダンボールの開封も終わってない状態で、居間にとりあえず置いてあるちゃぶ台の前に正座。一緒に座っている岩永さんも、ついでに言うと咲耶も正座だった。『正座しろ』というのは特に他意があったわけじゃなく、ただ単に礼儀正しい家なのかもしれない。
 でもとりあえず、この状態は俺が想像していたのとは色々違うと思います。
「で、つまりミコトと岩永さんは『偶然』隣同士だと」
「うん、そうだけど」
「何度聞けば気が済むんですか。それとももう痴呆ですかひょっとして」
「……結局学校では白黒つけられなかったっけね。とりあえず立ちなさい」
「望むところです」
「いやすいません勘弁して下さい」
 間違いなく、俺が想像していた『クラスの気になる女の子が親のいないときに初訪問』というイベントは『女の子同士がガチバトル(拳的な意味で)』という単語とはイコールで結べないものだったと思います。
 そんな俺の切実な願いが通じたのか、二人は無言でもとの位置に――明らかに互いに警戒し合いながら座り直した。
 いかん、やはりこの二人が一緒だと一触即発過ぎる。今日一日で十分理解したつもりだったけど、その特性は場所を校内から我が家に移してもなんら変わらないらしい。むしろ授業とか教師とか、そう言ったストッパーがない分危険度が増している気すらしてきた。
「えーと。俺は三日前にここに越してきて一応隣と下の部屋には挨拶しに行ったんだけど……岩永さん、いなかったよね?」
「ええ。私が越してきたのは昨日の夕方なので」
 俺も気になっていたことを岩永さんに聞いてみると、あっさりそう答えられた。
「本当なら私もお隣さんぐらいには挨拶に行こうと思っていたんですが、昨日は昼頃越してくる予定が手違いで遅くなってしまったのでやめておいたんです。余り遅くに伺っても迷惑になるかも知れませんし」
「いや、別にそんなことはなかったけど……」
 まあ確かに普通の家だったらそうかも知れないけど、さっきも言ったようにうちは俺一人だし。うちの親父、越してきたら荷ほどきどころかあれやこれやの手続きすらせずにどっかに行っちゃったし。いや、仕事なのでしょうがないんだけど。
「とにかく、これからよろしくお願いします」
「あ、こちらこそ」
 正座したまま、礼儀正しく手をついてお辞儀をされたので、慌てて俺もお辞儀を返す。
 なんか変な気もしたけど、とりあえずお隣さんへの挨拶は大事である。まあさすがに「挨拶用に」と用意していたタオルを渡すのはどうかと思うのでやめとくけど。
「……それで、ミコトの家はお父さんがトラックの運転手を?」
「ああ。長距離だからいつ帰ってくるのかわからないけど」
 咲耶の問いにさっきもした説明を繰り返すと、今度は岩永さんの方に声をかけた。
「で、アンタんとこは?」
 割とぞんざいなその口調に『またひと悶着あるんじゃないか』などと今日何度目か数えるのも嫌になる心配をしたりもしたけど、岩永さんは素直に答えを返した。
「父が母を連れて海外に長期出張をすることになりまして。私もいっしょに来るようにとか言われたんですが、さすがに海外に行くのは嫌だと言ったらこのアパートを紹介されたんです」
「え? じゃあこのアパートってアンタのご両親が――」
「いえ、大叔母です。私が日本に残ることは納得して貰えたんですが、さすがに一人で放り出すわけにもいかないから、仲のいい大叔母が大家をしているこのアパートに住むことにして、ここから通える学校で編入可能なところを探したら日向学園だったわけです」
 そこまで言うと『説明は済んだ』とでも言わんばかりに口をつぐむ。
「ちなみに俺も『親の仕事の都合』ってやつで。なんか仕事紹介して貰うときにここだと都合がいいとか何とか言ってたけど」
 岩永さんに比べるとわれながらあっさりした説明だとは思うけど、しょうがない。だって俺も詳しく教えて貰ってないんだし。まあ俺が細かく聞かなかったというのもあるかもしれないけど。
 とりあえず、当初の目的であった状況説明は終わった。これで何もやましいことはない――っていうか何がどうなっているとやましいのかはわからないけど。
「そんじゃつまり、二人とも一人暮らしみたいなものなのね?」
「そういうことになりますね」
「うん」
「食事とかってどうしてるの?」
「ああ、そうだ。そろそろ買い物に行かないと」
 咲耶に言われて思いだした。窓から見える空は綺麗な夕焼けで、あと一時間もしないうちに太陽が沈んで夜になるだろう。あんまりのんびりしていると、店が閉まることはなくても総菜とかが売り切れる可能性がある。
「買い物って?」
「ああ。ここから十分ぐらい歩いたところにちょっと大きめのスーパーがあるんだけど、知らない?」
 聞いてみるが、二人とも知らないらしくて首をかしげている。
「そろそろ行こうかと思うんだけど……一緒に、行くか?」
 あくまで善意で――最近引っ越してきたばかりの二人に馴染みの店を教えてあげるつもりでそう聞いてみた。『馴染み』って言っても今から行くので三回目だし、まあ純粋に100%善意かと聞かれると微妙なところなので誘う前にちょっと間が開いたりしたけど。
「じゃあ、案内して貰っちゃおうかな」
 俺の言葉をどう受け取ったのかは知らないけど、咲耶は割とノリノリでそう言うと立ち上がった。
「んで、アンタはどうするの?」
「私も行きます。鞄だけ置いてきますから、ちょっと待ってて下さい」
 そして咲耶にそう聞かれて、当然のごとく岩永さんもそう答える。
 多分あれだな。この二人は――そして多分俺を含めた三人は、今後こんな感じでいることが多いんだろうな。出かける準備をしながら、俺は漠然とそんなことを思っていた。





 スーパーしまむら。スーパーというよりなんだか服屋を連想しそうになるその店は、名前から想像がつくだろうけど大手チェーン店とかそう言うことはなく、地域密着型の個人スーパーってやつである。ひょっとしたら何件かチェーン店があるのかも知れないけど、それは別にどうでもいい。
 ともかくそんな感じの店なのでしょぼいスーパーなのかというと、実のところそうでもない。外観は白く塗られた綺麗なものだし、さすがに一階建てだけどそれでもかなりの店内面積である。まあ、さっきも言ったとおり来るのは三回目なので偉そうなことは言えないけど、少なくとも俺だったらここ一軒あれば買い物には当分困らないと思う。
「んで、何買うわけ?」
「とりあえず、食い物かなあ。今夜と明日の朝と。岩永さんは?」
「私もとりあえず食べ物ですね。あとは中を見てみないと」
「そうね、じゃあ入りましょうか」
 そんな感じで和やかに――ごく普通の会話だけど、少なくともさっきまでの俺の部屋でのやりとりよりは格段に和やかに話しつつ店内に向かう。
 三人で連れ立って店内に。自動ドアを開けて中に入り、ちょっと陽気な曲を聴きつつ買い物篭を持ち、なんとなく物珍しい感じで周囲を見ている二人と一緒に――
 Trrrrr……
 行こうと思ったら携帯が鳴った。俺じゃあない。右を見る。岩永さんもこっちを見ていた。
 まあそうすると残るは一人なわけだが。
 そんなわけで、岩永さんといっしょに咲耶の方を見ると携帯を開いていた。
「ごめん、家族」
 ちょっと気まずそうな顔でそう言うと、そのまま店外に出て話し始めた。入り口の脇も大きめのガラス窓があるので咲耶の姿は見えるけど、さすがに何を話しているかは聞こえない。いや、聞こえたら聞き耳立てるのかっていうとそんなことはないけど。
 さすがにここで咲耶を放置して買い物を始めるのもどうかと思うので、なんとなく入り口の側にある商品とかを眺めてみる。野菜だった。正直見ていても面白くはない。
 岩永さんも同じように白菜とか見ているけど、手にとって色々チェックをしている。やっぱ料理できると便利かなあ。
 そんなことを考えていたら、咲耶が戻ってきた。
「電話、もういいの?」
 とりあえずそう聞いてみると、なんだか微妙な顔をしつつ口を開く。
「ごめん、家に帰らないといけなくなっちゃった」
「あ、そうなんだ」
 まあ、考えてみりゃ当然だろう。外を見ると暗くなり始めている。自分ちの娘転入初日からこんな時間まで連絡もなく帰ってこなかったら、普通のご家庭だったら電話の一つもしてくるだろう。
「なんかおば――祖母が心配してるみたいで。せっかくなんだけど……」
「うん、わかった」
 確かに残念っちゃ残念な気はするけど、どうしても今日じゃなきゃいけないというほどのことでもない。
「なんだったらまた都合のいいときにでも案内するし」
 だからつい、さらりとそんな言葉が口からこぼれた。
 後で考えてみると店の場所はもう教えてしまったわけだし、『案内』とか言ってみてもどこをどう案内するつもりだったのかはわからないけど、とにかくこの時は自然とそんな言葉を言っていた。
 そして、それを聞いた咲耶はと言うと。
「本当? それじゃ約束ね。じゃあまた明日!」
 そう言って何だか今日一番の笑顔を浮かべ。
「ああ、一応アンタも」
「ええ、また明日。帰りに寄り道してご家族から再度電話とか間抜けなことにならないように祈っています」
「……その喧嘩は明日買ってあげるわ」
「それはどうもありがとうございます」
 まるで別れの挨拶がわりだとでも言わんばかりにそんなことを言い合って、もう一度「それじゃ!」とか言って手を振ると、半ば走るような早足で帰って行った。
 そして俺も何となくつられて右手を軽く振っていたわけだが。
「あんまり人前ででれっとした顔していない方がいいと思いますよ」
 なんだか不機嫌そうな岩永さんにそう言われた。
「え? 俺、そんな顔してた?」
「知りません」
 そう言って岩永さんはすたすたと店の奥に向かって歩いていく。
「……俺、何かしたか?」
 しかし、考えてみても岩永さんが不機嫌になる理由が思いつかない。さっきまではまあ、愛想がいいとは言い難くても不機嫌ではなかったと思うんだけど。
「あんまりぼうっと突っ立っていると他のお客さんに迷惑ですよ」
 考えている間に少し先の方まで歩いていた岩永さんが振り返り、そう言ってきたので慌てて返事をする。
「あ、ごめん。今行く!」
 口調からしてもやっぱり不機嫌だった。少なくとも上機嫌ではなかった。いやまあ、今日一日ほとんど一緒にいても上機嫌な岩永さんというのは見ることが出来なかったんだけど。
「……わからん」
 とりあえず、そんなことを呟きながらも岩永さんと一緒に店内を見て回ることにした。
「それで、まずどこに行くんですか?」
「あ、うん。今って何時かわかる?」
「七時前ですけど」
「ごめん、それじゃ先に俺の買い物済ませてもいいかな?」
「別にいいですけど……」
「ありがとう!」
 突然積極的にに動き出した俺に岩永さんが若干面食らっているような気がするけど、まずはここに来た主目的を片付けなくてはいけない。
 さっきから岩永さんが何故か不機嫌であるというのは確かに問題だけど、他にも問題はあるのである。しかも割と切実に。
 そんなわけで俺は早足で――でもさすがに岩永さんを置いて走り出すほど人でなしではないというか、そもそも店内を走る客というのは非常識極まりないので早足で目的地へ向かう。
「よし、何とか間に合った」
 すなわちそこはお総菜コーナー。
「お総菜、ですか?」
「うん。ここの店で作ってるんだけど、六時半過ぎると総菜を安売りしてくれるんだ」
 いわゆるタイムセールというやつだ。確かに揚げてからそこそこの時間が経っているので味は落ちているかも知れないが、幸いにも我が家には電子レンジという名の文明の利器がある。温め直せば十分美味しくいただけます。
「みんな狙っているのか、すぐに売り切れちゃうんだよね」
 正直なところこんな時間には残ってないかと思っていたが、幸いにも豚カツが一パック残っていた。普段――とは言っても一昨日と昨日の二日間しか使ってないんだけど、とにかくその時買ったメンチカツやコロッケに比べると多少値は張るけどまあ許容範囲だ。まあ転入初日の記念ってことにしておこう。
「他には、ないみたいですね」
「うん。うちみたいな料理できない人たちにとっては助かるからね。料理できればいいんだろうけど」
「……そうですね」
 目の前にはさっきまで総菜のパックが並んでいたであろう大きめのスペースがあるが、岩永さんの言うとおり何一つ残っていない。いや、すみっこになんかサラダがあったけど、さすがにあんな小さいパックじゃあんまり腹の足しにはならない。やっぱり野菜より肉である。
「そんなわけで俺の買い物は終わったけど、岩永さんは何を買うの?」
 しょうがないこととはいえ『案内する』って言った人間が即ダッシュで(いや、走ってはいないけど)自分の目当てのコーナーに行ってしまったので、ここからは岩永さんの案内に専念することにする。
「新井木くんの買い物はもういいんですか?」
「うん。まあお菓子と飲み物ぐらいは見ようかなと思ってるけど、それぐらいだな」
 聞かれてそう答えると、岩永さんは何か色々と考えるようなそぶりを見せる。まあ確かに漠然と「何を買うのか」とか聞かれても困るのかも知れない。
「とりあえず野菜とか見る?」
「え? 野菜?」
 何となく聞いてみると、思いのほかビックリしたかのように聞き返された。
「白菜とか見てたから」
「え? いつですか?」
「いやほら、さっき電話を待ってるときに」
「あ、そうですね。白菜」
 やっと思い出したのか、岩永さんはこくこくと頷きながらそう答える。
「それで、野菜売り場でいいのかな」
「はい、お願いします」
 お願いしますも何も数分前にいた場所だし案内の必要なんてない気もするけど、それを言ったらスーパーの店内に案内が必要なのかという話なので言いっこなしだ。
 そんなわけで野菜売り場に――
「あ、すいません。ちょっといいですか?」
「ん?」
 歩きはじめたとたんに声をかけられ、振り向くと岩永さんは総菜売り場からさっきのサラダを手に取っていた。
「それ、買うの?」
 何となくそう聞いてみると、気のせいか一瞬びくっとしたように見えた
「いやその、野菜とかは一人分だと割高になりますから」
「ああ、そういやそんなこと言うよね」
「ええ。保存も大変ですし」
 そういや俺も聞いたことがあるけど、料理は実際に作るのよりもそういう材料のやりくりとかが大変らしい。まあそれがめんどくさそうで俺も料理する気がしないわけだが。あと、生ゴミ出ると色々めんどい。
「じゃあとりあえずぐるっと回ろうか。俺もあんまり詳しく見てないとことかあるし」
「はい。じゃあ行きましょうか」
 そんな感じで、今度こそ歩きはじめる。
 いつの間にか岩永さんの不機嫌も直ったみたいだし、とりあえずは二人でゆっくり買い物を楽しもう。
 なんとなく『デートみたいだな』とか思って軽くどきっとしたりもしたけど、顔には出ないように気をつけつつ。





 コーポ笠木〜スーパーしまむら。
 出かける前に咲耶に説明したとおり、歩いて十分ぐらい。ストップウォッチで計ったわけじゃないので正確にはわからないけど、行きに要した時間は十分弱、帰りは十五分ちょい。
 五分近い誤差があるのは途中で道に迷ったとかそう言うわけではなく、行きと比べて帰りの方が会話も多かったからだと思う。間違っても、なんだかんだで色々買い込んだ岩永さんの荷物が結構重そうなので『俺、持つよ』と言って半ば無理矢理荷物を受け取ってみたら想像以上に重くて歩く速度が落ちたというわけではない。ないったらない。そこはやはり男として認めるわけにはいかない。
 さておき、会話が多かったのは事実である。
 考えてみれば、確かに咲耶と比べて岩永さんはとっつきにくい気もするけどあれはどっちかというと咲耶が人一倍馴れ馴れしいだけだろうし、一対一で話す場合はしっかり距離感持ってくれている岩永さんの方が話しやすい。
 そんなわけで帰り道ではそれなりに会話も弾み――まあ、まだ知り合ったばかりというか今日初めて会ったもの同士なので話題が豊富というわけではないけどそれなりに色々と楽しく話せた。
「あの、新井木くん。そろそろ荷物を……」
「いや、ここまで来たらついでだから」
 確かにもうあとは階段を上るだけなので岩永さんの言葉ももっともだし気遣いはありがたいが、逆に後は階段を上るだけだからこそここで音を上げるわけにはいかない。
 そんなわけでもう一度気合いを入れ直すと階段に足をかける。足音が明らかに重たいが、それでも一歩一歩踏みしめるように前に進むとやがて二階に辿り着く。いやまあ十段ちょいの階段なので、そこまで大層なものでもないけど。
「あ、本当にそこまでで。ドアの前に置いておいてくれればいいですから」
「いや、ここまで来たらせっかくだから――」
「いえ。まだ中が片付いていないもので」
「あ、そうか。ごめん」
 言われて気づいたけど、まあそりゃ確かに多少親しくなったとは言っても今日会ったばかりの男を引っ越しの荷物も片付いていない部屋に入れるのは嫌だろう。
「じゃあ、ここに」
 そう言って静かに下に置く。
「ありがとうございました」
「うん。じゃあまた明日、かな」
「そうですね。また明日」
 出来る限り爽やかに笑うと、軽く手を振って隣にある自分の部屋に行く。ポケットから鍵を取りだしてドアを開け、中に。そして後ろ手に扉を閉めて――
「疲れた……」
 外から見えなくなった瞬間崩れ落ちた。正直、岩永さんの買い物袋を持っていた手はもちろん足腰も限界だった。
 とりあえず、見栄をはるのはほどほどにしようと心に決めた。あと、ちょっとは鍛えよう。
 正直なところこのまま寝たいところだったけど、夕食を済ませてない以上はそうもいかない。
 いや別に寝てもいいんだろうけど、さっき豚カツを買っちゃったし。冷蔵庫に入れておけば一日ぐらい保ちそうだけど、前にそれやった時はつい忘れて色々大変なことになったしなあ。
「おっし」
 十分近くだらだらと考えた後、何とか気合いを入れて起き上がって食事の支度を始めることにする。
 とは言ってもさっき岩永さんに説明したとおり、料理なんてほとんどできないので米を炊くぐらいである。
 とりあえず炊飯器に一人分の米を入れて、適量の水を入れて蓋を閉じてスイッチオン。以上で終了。無洗米は男の一人暮らしの味方だと思います。
 あとは備蓄のレトルトカレーがあるので鍋にお湯を沸かし、沸騰したらカレーを温めて出来上がりである。水を入れた鍋をコンロにかけたところで、いっそのことカレーじゃなく総菜でそのままご飯を食べた方が楽だったんじゃないかと思いついたりもしたけど気にしない。今から鍋の水を捨てるのがそもそもめんどくさい。
 湯が沸くまではまだしばらくかかるので、疲れた身体を引きずるようにして居間(になる予定の部屋)に移動。
 まだダンボールが積んであったりするけど、一応食卓をはじめとした家具も置いてあるしテレビだってある。
 今はなにか音声がないと寝そうな気がするので、見たいものがあるわけじゃないけどテレビのスイッチを入れる。
 まあ特別見たい番組じゃなくても見始めたらそれなりに面白いわけで、ふと気づくと結構な時間が経っていた。
「うわ、やば」
 そう呟いて立ち上がり、小走りに台所へ。コンロの前に行くとすっかり鍋は沸き立っていて、中のお湯も半分近く減っていた。
「あー、また水足さないと」
 そういやさっきスーパーにキッチンタイマーがあったけど、あれ買った方がいいのかなあ。お湯が沸騰する時間を計っておけば便利そうな気がするけど、買ってきたらきたできっと面倒になって使わないだろうなあと思いつつ、鍋を見てみる。
 お湯が減っているとは言ってもまだそれなりに残っているし、空焚きをしてしまったわけではないっぽい。実はさっきから若干焦げ臭い匂いが漂っているので不安だったんだけど、どうやら特に焦げたものはないらしい。
「……あれ?」
 おかしい。
 今確認したとおり、鍋は無事。コンロはここに引っ越してきたときに買ったものなので新品同然。一応炊飯器を見てみるけど、まだ炊飯を始めたばかりで焦げるわけもない。
 何となく不安になったのでコンロを止めて様子をみてみるけど、やっぱり我が家は無事。
 でも鼻をひくつかせてみると、微かではあるけど確かに焦げ臭い匂いがする。
「……まさか?」
 言いながら駆け出し、玄関に脱ぎ捨てられていた靴に足をつっこんで外へ。ちゃんと履くのももどかしく、踵を踏みつぶして外に飛び出ると予想通りの光景が広がっていた。
 二○一号室から――つまり、岩永さんの部屋から煙が漏れている。
「岩永さん!?」
 叫ぶとチャイムを何度か鳴らし、扉を荒々しくノックする。中から返事が聞こえた気もするけど、あまりはっきりとは聞こえなかった。
 ノックしながらドアノブを捻ると――ノブは回った。どうやら鍵はかかってなかったらしい。防犯上どうかとは思うけど、今は都合がいい。
「ごめん、入るよ!」
 扉を開けながらそう叫び、中に躍り込むと奥から煙が流れてくる。
「――ミコト、くん?」
「岩永さん、無事!?」
 岩永さんの声が聞こえたことにとりあえず安堵しながら、靴を脱ぎ捨てるように奥へと進む。
 間取り自体は俺の家と変わらないので迷うことなく――いやまあ迷うほど広いアパートではないけどとにかく辿り着いたそこには。
 もうもうと煙を上げるフライパンと、その前でおろおろとうろたえる岩永さんがいた。
「……岩永、さん?」
「えっと、あの、その……」
 こういう時の基本は、慌てず・騒がず・冷静に。
 だから俺は慌てずコンロの前に行き。
 騒がずに火を消して。
 冷静に換気扇のスイッチを入れた。強で。
 ブゥウウウウン……
 割と大きな音を立てて換気扇が回り出すと、台所に立ちこめていた煙はどんどん吸い出されていく。
 後に残されたのは、まだ落ち着いていないっぽい岩永さんと。
「一応聞くと、これは?」
「魚を焼こうかと……」
 フライパンの上にある魚だったらしい物体だった。





「料理とか、駄目なんです」
 あの後、とりあえず煙は処分したものの料理を続けるわけにもいかないので軽く片付けをした後に俺の部屋へと移動した。
 さすがに岩永さんをあのまま放っておいて「はい、さようなら」と言うわけにも行かないので連れてきたわけだが、そんな岩永さんの第一声はそれだった。
 まあ、第一声とは言ってもこの部屋に来てからたっぷり十分近く経っていたが。ついでに言うと、あの惨状を見れば想像がつくというか確信は出来ていたが。
「ええと、とりあえず謝った方がいいのかな」
 考えてみれば岩永さんが自分から料理が得意だと言ったことはなく、それは完全に俺の思いこみだった。言ってくれれば良かったのにという意見もあるかも知れないが、ここでそれを指摘するのは酷い男のすることだ。多分。
「いえ、はっきりと言えなかった私が悪いんです。しかも『焼くだけなら簡単だろう』とか思ってあんなことに……」
 うん、料理初心者がわりと陥りやすい過ちだった。ちなみに俺もこういう生活が始まったころに特売のステーキ肉を無駄にしたことがある。そんなわけで岩永さんのミスを指摘する気はないし、そんな資格もない。にしても換気扇を回さず料理をするとか、まあそこはいいとしてもグリルつきのガスコンロなのにフライパンで魚を焼き始めるのはどうかという気はするが。
 男には荷物が半端なく重たくても『こんなもん重くて持てるか!』と言えない男の意地があるように、料理が出来なくても『料理はからっきしなんです、てへ』とか言えない女の意地があるんだろう。
「まああれだな、変な意地を張るのはやめた方がいいな」
「お互いに、ですね」
 ついでってわけでもないけど何となくかっこつけて言ってみたら、即座に指摘された。
「な、何を」
「買い物帰り、最後の方なんてぷるぷる震えていたじゃないですか」
 バレバレだった。
 もうすっかり日の暮れた木曜日の夜。気まずい沈黙の中、ガスコンロの火の音と湯が沸く音だけが聞こえていた。
「よし、もういいかな」
 そう言ってコンロの火を消し、中のものを外に取り出す。いや、もちろん熱湯を手ですくい出すとかそんなことをしているわけじゃなく、取りだしたのは鍋のお湯で煮られていた――というか温められていた銀色の袋だった。ちなみに二袋。
「……何ですか?」
「レトルトのカレー」
 岩永さんの問いにそう答えると、カレー皿を二枚用意する。そしてぴったりなタイミングで炊飯器のアラーム音が鳴ったので蓋を開ける。
 しゃもじで中をかき混ぜてみるが、幸いにも水加減を間違えたりしてないし焦げてもいない。
「ちょっと少ないかもしれないけど」
 そんなことを言いながら食卓に置き、レトルトカレーの袋を開けてその上にかける。
「えっと……」
「ああそうだ、忘れてた」
 何か言いたげな岩永さんだったけどここはあえて無視して、さっき買ってきた豚カツを取り出す。まな板の上で適当に切って両方のカレーの上へ。
「はい、できあがり」
 そう言って岩永さんの前にカレーを置き、その向かい側に俺も座る。
「あの、これは?」
「晩ご飯。ひめ……岩永さん、あの様子だと晩ご飯の準備できてないでしょ?」
「はい。そうですけど……」
「だからほら、お裾分けっていうことで」
 結果的に俺が無理させてしまった気がするので、お詫びを兼ねて。さすがに直接そう言うほど空気読めない子じゃないから言わないけど。
「でもそんな、申し訳ないですし」
「あれだ。引っ越しぞばとかそんなもんだと思えば。引っ越しカレー。それにもう用意しちゃったから、余らせると後が大変だし。」
 まだなんだか遠慮している岩永さんに、畳みかけるようにそう言う。実際の処、カレーのルーは確かに二袋分使っているので量が多いけどご飯の量はもともと一人で食べるつもりの量だったので食べられなくはないけどこれで『やっぱりいいです』とか言われて帰られると半端無く寂しいものがある。
 もしどうしても嫌っていうならこのまま皿ごと持って行って貰おうか。悩む岩永さんを見ながらそんなことを考えていたけど、少し経つと口を開いてくれた。
「わかりました。それじゃあお言葉に甘えさせて貰いますね」
「うん、遠慮しないで――」
「でも、ちょっと待って下さい」
 無事にいい返事が貰えたことが嬉しくて、笑顔を隠さず食べようとしたところで席を立たれた。
 全く予想していなかったので軽く唖然としていると、岩永さんはいつもの調子を取り戻したのかきびきびと歩いて出て行った。いや、部屋をじゃなくこの家を。
 一瞬帰ったのかと思ったりもしたけど、待っていろと言って家に帰るというのも考えづらい。
 とりあえず待ってればいいのかな、と結論付いたところで再びドアが開いて岩永さんが戻ってきた。
「ご馳走になりっぱなしと言うのも申し訳ありませんから」
 そう言って差し出されたのは、サラダと牛乳だった。両方とも見覚えはある。というかまあ、運んだのは俺だ。
「あ、ごめん。飲み物出してなかったね。えーと、コップを……」
「私の分は持参しましたので」
「それじゃ俺の分だけだね」
 俺も自分の分のマグカップを取りだし、食卓に置くと岩永さんがパックを開けて牛乳を注いでくれる。
 岩永さんのカップがイメージとちょっと違って熊が描かれたファンシーなデザインなのを見て『可愛いな』とか思ったりもしたけどさすがに声に出す度胸はない。
「ありがと、岩永さん」
 何とかそれだけ言い、スプーンを手に取ったところでまた声をかけられた。
「あの、新井木くん」
「何?」
 カレーに向いていた視線を上げて岩永さんの方を見ると、気のせいかちょっと顔が赤かった。スプーンはまだ置かれたままなのでカレーのせいってわけじゃないと思うけど。
「その、呼び方なんですけど」
「うん」
 なんだか今までよりも格段に真剣に、一言一言を確かめるように話しているので、俺も真剣に聞くことにする。
「『姫子』って呼んで貰えませんか」
 そして俺の手からスプーンが落ちた。
「……新井木くん?」
「いや、ごめん。うん、なんて?」
 あまりに予想外のことを言われた気がしたので、聞き間違いかと思ってもう一度聞き直す。
「ですから、『岩永さん』じゃなく『姫子』と呼んで貰えないかと」
 聞き間違いじゃなかった。
 なんだろう、俺の記憶だと岩永さんとは今日が初対面であり、そこそこ一緒にはいたけどあくまでクラスメイトだと思っていたところで『実はアパートの隣の部屋に住んでいました!』とか驚きの新事実を明かされたばかりだと思うんだけど、ひょっとして俺の記憶がないところで第二の人格とかが何か壮大なドラマの後に二人の関係を変える何かをしでかしたんだろうか。
「あ、いえ。変な意味じゃないんです!」
 そしてなんだかあらぬところに思考が飛びかけていた俺に、珍しくわたわたと慌てた感じの岩永さんが言葉を続けた。
「そう、そうです。わたし、名字で呼ばれるのってちょっと苦手なので。できれば下の名前で呼んで貰えればと」
「あ、ああ。そういうことか!」
「はい、そういうことなんです!」
 ははははは、と二人で意味もなく朗らかに笑った。今日一番の笑い声だった。いや、他に声立てて笑った記憶はないけど。
「ええと、それじゃあ、姫子」
「は、はい」
 なけなしの勇気を振り絞り、何とかそう言うと岩永さん――いや、姫子は気のせいじゃなく真っ赤になってそう答えた。
 実のところ、いきなり呼び捨てはハードルが高かったので『姫子さん』にしようと思っていたら『姫子』まで発音したところで噛んでしまったわけだが、本人も納得してくれたみたいなのでこれでよしとする。
「えーと、それじゃ俺からもいいかな」
「はい。何ですか?」
「俺だけ呼び捨てってのも何だし、姫子も俺のこと下の名前で呼んでくれないかな」
「わ、わたしもですか!?」
 姫子の顔は言うまでもなく真っ赤でだった。一瞬言わなきゃ良かったかとも思ったけど、ここまで来て退くわけにもいかない。
「いやほら、明日学校とかで俺だけ下の名前で呼んでると勘違いしてるやつみたいだしさ。それにさっきは下の名前で呼んでたじゃない」
「え?」
「さっき、姫子の家に行ったとき。焦って勝手に入っちゃったけど、『大丈夫?』って聞いたら『ミコトくん』って」
「あ、あれは……」
「いや、別に嫌とかそんなことじゃないって言うかその、とにかくそれは気にしなくていいから」
 さすがに『嬉しかったよ』とか爽やかに言えるほど経験も根性もないのでそこはぼやかしたけど、言いたいことはとりあえず言った。これで「やっぱり嫌です」とか言われたらしょうがない。と言うかよく考えると意地になることでもないというか何でここまで頑張っているのかわれながら理解できなかったりするけど、ここで前言撤回なんて出来るわけがない。
 そしてしばらく経って――実際にはそんなに経っていないのかも知れないけど、少なくとも長く時間が経ったように感じた後、姫子はようやく口を開いた。
「ミコト……くん」
「う、うん。それで」
 姫子の顔は真っ赤だったけど、俺の顔もきっと同じぐらい赤くなっているだろうと思う。
「じゃ、じゃあカレー食べようか!」
「そ、そうですね! 冷めちゃうと大変ですから!」
 お互いに自分の顔が赤くなっているのを隠すように――もし指摘されたら『カレーが辛かったから』とごまかすためにカレーを食べる。
 勿論、カレーの味なんてわからなかった。





「おはよーっす」
 姫子とカレーを食べた翌日の朝、そう言って教室に入る。時計を見ると始業十五分前だった。
 まだうち解けたと言える自信はないけど、それなりに「おはよう」とか挨拶を返されつつ自分の席に向かうと、俺を待っている人がいた。
「よう、ミコト!」
 言うまでもなくサルだった。
 身長が百八十センチ近いダブりの上級生が座っているからか、俺の席の周りには誰もいなかった。俺がこのクラスに早く馴染むためには、この自称親友を抹殺することが必要なんじゃないんだろうかと考えているうちに自分の席に辿り着く。
「ほら、どけ。座るから」
「つれないねえ」
 何だかニヤニヤ笑いながらもあっさりどいたので、机の上に鞄を置いて椅子に座る。人肌で温められていてそこはかとなく気持ち悪い。
「今日は二人と一緒じゃないのか?」
「いや、『今日は』って今まで一緒に登校したことなんて一度もねえよ」
「まあいいや。とりあえず携帯の番号とメアドの交換しようぜ」
「? 別にいいけど……」
 また、思いのほかあっさりと引き下がられて拍子抜けだったけど、都合がいいのは事実なので番号とメアドを交換する。ウザくなったら着信拒否すりゃいいだけだし。
「よし。それじゃ、あ・ら・い・ぎ・み・こ・とっと」
 別にいちいち読み上げる必要はないと思うんだけど、鬱陶しくも俺の前で俺の名前を読み上げながら携帯を操作している。
「よし、登録完了したぜ!」
 そう言ってずびしと俺の方に携帯を向けてくるので適当に「ハイハイ」とあしらいつつ――
「ちょっと待てコラ」
 サルの携帯を奪い取ろうとしたら逃げられた。
「昨日はお楽しみだったようで」
「お前、その写真どこで撮った!」
「いやほら。昨日はああ言って別れたけど、よく考えたら三人ともこの辺になれてないから不便なんじゃないかと思い」
「思い?」
「尾行した」
「最悪だコイツ!」
『思い立った』とか言っているけど間違いなく確信犯だこいつ。
 なんとか携帯を奪い取ろうとするものの、身長が十センチ近く違う上に俺より体格がいいので無理矢理奪い取ることもできない。だからと言って、諦めるわけにはいかない。
「返して欲しければどういうことか説明して貰おうか」
「つけてたんなら知ってるだろうが!」
「本人から聞くのが面白いんじゃないか」
 最悪なこと極まりなかった。
「なに、聞いたからといってクラスに言いふらそうとかそんなつもりはない。せいぜいが部活の時に話のネタにさせて貰おうと」
「それが駄目だつーんだ! いいから返せ!」
 十センチぐらいの身長差ならジャンプで何とかなるかと思い飛び上がるが、サルはその図体に似合わない機敏な動きで俺の手をかわす。
「はっはっは。これを返して欲しければ――」
「何やってんの?」
「あ」
 調子に乗ったサルがまた何かたわけたことを言おうとした瞬間、いつの間にやってきたのか咲耶が椅子を踏み台にしてサルの手から携帯を奪い取っていた。
 そして全く迷うことなくノータイムで携帯を開き。
「なっ――!」
 待ち受け画面を見たところで絶句した。
「何ですか?」
 そしてこれまたいつの間に来たのか――ひょっとしたら一緒に来たのかも知れない姫子さんも覗き込む。
「これって昨日の――」
 そう、昨日の放課後の光景。
 俺たち三人が仲良く――まあ客観的に写真で見てみると思いのほか仲良さそうにスーパーに入っていく写真だった。
 二人とも驚いてはいたけどすぐに立ち直り、まず咲耶が口を開いた。
「これ、どっちの携帯?」
「俺」
 サルが答えた瞬間へし折った。
「あーっ! 何しやがるてめぇ!」
「あらごめんなさい、ついうっかり」
 おほほほほ、と何だかお嬢みたいに笑い声を上げる咲耶の手にあるサルの携帯は見事にへし折れていた。
「湖乃葉さん、それ貸して下さい」
「? いいけど」
 目の前でギャアギャアと喚く、身長百八十センチで筋肉質なダブりの同級生を無視して咲耶は姫子に携帯を渡す。受け取った姫子はと言うと壊れた携帯をいじるとスロットからメモリーカードを取り出した。
「これは没収します」
「あー!」
「ツメが甘いですね」
「うるさいわね。それでどうするのよ、それ」
「そうですね。どうしましょうか……ミコトくん」
 姫子がメモリーカードを俺に手渡しつつそう言った瞬間、時間が止まった。
 いや、別に今朝突然スタンド能力に目覚めたとかそう言うことはないのであくまで比喩だけど。
「ミコト、くん?」
「ええ。ミコトくんが『下の名前で呼んでくれ』と言っていたので」
「いやいやいや。それは間違いじゃないけど姫子が」
「……『姫子?』」
 漫画だったら『ズゴゴゴゴゴ』とか、かなり重厚な擬音が背景に描かれそうなオーラを背負って咲耶が聞いてくる。
「いや、その。岩永さんが先に『下の名前で』って」
「……ミコトくん、約束が違います」
「いやあの、やっぱその状況をね?」
 ふと気づくと、サルが怖かったのか何なのか遠巻きにしていたクラスメイトたちも近づいては来ないけど興味深そうにこっちを見ている。ああ、なんだかとっても予想通り。
「第一、わたしが『咲耶って呼べ』って言っても全然聞いてくれないのに、何で姫子の言うことは素直に聞くのよ!」
「いやほら、それは流れっていうかあの時はさすがに初対面過ぎて」
 頭の中では呼び捨てで考えてるんだから妥協して欲しいとか言ったら殴られるよなあ。
 本人がいいって言ってくれてるんだから下の名前で呼ぶことには異存がないっていうかそうしたいが、転入初日に「いやでもやっぱり無理」とか言っちゃったので今さら急に呼び方を変えられない。そんなことを考えていたらサルが咲耶に馴れ馴れしく声をかける。
「どうするよ咲耶。姫子ちゃん一歩リードみたいだぜ?」
「アンタが呼ぶなっ!」
 言いながら迷いのないストレート。腰の入ったいいパンチだったが、さすがと言うべきかサルも見事にかわした。
「避けるんじゃないわよ!」
「ふざけんな! てめぇ女だと思って油断してたけど、今のパンチ容赦なく鳩尾狙ってただろう!」
 サルはそう言いながら間合いを取って警戒している。
 格闘技の経験があるんだか何だか知らないけど思いのほかスパルタンなことが判明した咲耶だけど、こうなると攻撃には移れないらしい。
 スキを探っているのかしばらく対峙していたが、少しして咲耶が口を開いた。
「ミコト、さっきのメモリーカード持ってるわね?」
「ああ、うん」
「よこしなさい」
「はい」
「あ、てめぇ! 親友より女を取るのか!」
「ストーキングして盗撮までこなす親友なんか知らん」
 サルがふざけたことを言ってきたのでそう返してやると、咲耶はメモリーカードを――
「ふんっ!」
 ぱき。
「あーっ!」
 ものの見事にへし折った。
「何しやがるてめぇ!」
「うるさいわね、腹いせよ!」
 もういっそすがすがしくそんなことを言い放つ咲耶だけど、携帯へし折ったのは中折れ式だったから理解できるとしても、メモリーカードって折れるモノなのか?
「湖乃葉さん、それ貰えますか?」
「はい」
「どうも」
 そしてメモリーカードの残骸を受け取った姫子がどうするかというと。
「えい」
 教室の窓を開けて外に向かってぶん投げた。
「あーっ!」
「ああ、もうしわけありません。わたしもうっかり」
「そんなうっかりがあるかあっ!」
「訴えられないだけありがたいと思いなさいダブりのストーカー」
「くそ、ミコト! こいつら二人とも性格悪いぞ! やめとけって!」
「もういいから黙ってろお前」
 転校二日目は、そんな騒がしい始まりだった。
 ちなみにこの騒ぎは気のせいか隣のクラスとかからも若干ギャラリーを集めつつホームルームが始まるまで続いた。
「若いうちに意見をぶつけ合うことは大切だ。ホームルームの時間もそれに回すことにしよう」
「仕事しろよ担任教師」
 訂正、ホームルームが終わって一限目の授業が始まるまで続いた。




 つづく




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