たとえばそんな11月4日




 -1-

「…ふぁ…ぁ〜…」

 海己の匂いがする。

 布団にくるまったままぼんやりと目を開けると、すぐに優しい視線とぶつかった。
 俺のすぐ隣、同じ布団の中に横たわって、何をするでもなく、満ち足りたような微笑でもって俺をじっと見つめている、海己。

「あ、起こしちゃった?おはよう航、ごめんね」
「んー…って、いつから起きてたんだ?」
「えっと、たぶん一時間くらい前、かな」
「他にする事なかったのかよ、ヒマな奴」
「だって、だってぇ。起きたら、航の匂いのするお布団なんだよ?すぐ横に、航の寝顔なんだよ?
今日はそれでも誰も怒らないんだよ?だ、だから、どんどん、出たくなくなっちゃって…」

 ちょっと拗ねたような目で、弱々しく反論してくる。
 まあ、でも、おんなじ事考えてたとなると、こっちも少々決まりが悪い。

「ヒマしてるんなら、起こせよ」
「あ、うん、ほんとはね、そう思って…ね、その…航の頭撫でてみたり、手握ってみたり…き、キスしてみたり」
「…はい?いつの間に?」
「起きて、すぐ」

 小動物みたいなしぐさで視線を逸らす海己の白い肌が、首から上だけみるみる紅く染まっていく。

「じゃ、遅ればせながら、ご返杯」

 そう朝から可愛いこと言ってくれると、寝惚けついでに理性をぶっ飛ばしたくなってくる。
 海己の傍に身体を寄せて、柔らかい髪に手櫛を入れるように頭を引き寄せて、

「…ん…ちゅぷ…ぅん…」

 唇を塞いだまま、海己のパジャマの胸元にそっと掌を滑らせる。やっぱり柔らかいなあ。
 力を入れるでもなく、抜くでもなく。ゆっくりとその感触を愉しんでみる。

「…っ…ん…ぷぁっ、わ、航、こ、これから?」
「やー、だって昨日は学祭疲れで一回だけだったし」
「そ、そうだけど、みんなもう帰って来…んぁっ!ちょ、やっ」

 軽く掌に力を込めながら、反対の腕でしっかりと海己を抱き寄せていく。海己も何だかんだ言いながら、心地よい重みを、布団越しに俺の腰の上に乗せてきて…ん?布団越し?

「おなかすいたよ、わたる〜」

 俺の腰の上に馬乗りになった敵性生物が、ゆっさゆっさと揺さぶりをかけながらそう言った。

「しししし静おはよう。もう帰ってきてたのか?」
「おはよ〜じゃないよ、わたる。もうお昼」
「マジ?」
「え…えええええ?…ごめんね静ちゃん、今お昼つくるから!」

 俺の腕の中で硬直していた海己の意識が、恋人モードからお母さんモードに音を立てて切り替わる。
 こうなると風情もくそもない。慌しく布団を出ると、こちらを振り返りもせずに一目散で部屋の外へ。
どたんばたんと、珍しく一段越しで階段を下りる音が響く。

「わたるもはやくおきろ、みんな待ってる」
「待ってるって、今日はみんな休みだろ?サザンフィッシュ泊まるって言ってたからてっきり…」
「なおこが集めた」
「会長が?んー、分かった。起きるから、早いとこそこをどけ」
「え〜」
「お前は起こしに来たのか遊びに来たのか」
「ん〜」

 相変わらず俺に馬乗りになったまま、静は駄々をこねるように揺さぶりをかける。
 今日は学園祭の振替休日。片付けの作業も明日の午前中だし、平和な一日のはずなんだけどなあ?


 -2-

 静に遅れることしばし。食堂に下りていくと、まだ全員集合はしていない様子だった。

「あ、先輩おはようございます。ゆうべはおたのしみでしたね?」
「おいっす。って、お前は3ゴールドで泊まれる宿屋の人か」
「あいたぁっ!」

 相変わらず感情の読めないスマイルで、宮がおよそお嬢様らしくない挨拶をかましてくる。
 かるーく手刀でツッコミを入れ、定位置に腰を下ろす俺を、正面に腰掛けた元会長がじっと目で追ってきていた。

「おはよう会長…昨日は、ありがとな」

 やっぱり、会長、としか呼べない。毎度のことだが、今日はことさらに、この人には頭が上がらない。
 後夜祭が終わった後、当日片付けの仕切りを請け負って、俺と海己が教師連中につかまらぬようこっそり抜け出させてくれた上に、寮のみんなをサザンフィッシュ泊まりにするよう計らってくれたのだから、

「ずいぶんよくお休みだったねえ、現会長?ま、『一回だけ』らしいから、さぞお疲れだったんだろうねえ」
「お蔭様で…っていつの間に情報漏洩が!!」
「わたる、おつかれ〜」

 多少言葉に棘があっても、今日ばかりは甘受。

「ったく…ん、凛奈とさえちゃんは?」
「作業中。じき来るでしょ。言っとくけど、あんたも今日は休んでる暇ないからね」
「へ?本格的な片付けは明日のはずだけど」
「いいや、別件。あんたも、って言うか、航。あんたのための作業だから」
「俺の?」
「そう。あんた、今日中にあの部屋から引っ越しなさい」

 何を藪から棒にしょーもない冗談を、と思ったが、冗談と受け取らない人も、中にはいるもので。
 がしゃがしゃがしゃーん。
 海己が作業中の台所から、派手な破壊音が響く。俺のマグカップ、割れてないといいんだけど。

「きゃあああああ!だだだ大丈夫ですか海己せんぱーい!」
「お前が大丈夫じゃなさそうな。あー、とりあえず宮、箒とちり取り持ってっとけ」
「は、はいぃ!」

 宮がばたばたと台所に駆け込んでいく。混迷を深めるだけな気もするが、まあそれはさておき。

「会長さあ、俺はともかく海己は冗談通じないんだから」
「冗談なもんですか、あたしの采配に何か文句でも?」
「へ?いや、あのさ。引っ越すったって、俺にじいちゃんとこに戻れってこと?昨日の今日で?」
「誰がそんなこと言ったのさ?」
「あんただ、あんた!」
「ひーっこし、ひーっこし、さっさとひーっこし」

 ちんちんちん。静がお皿を叩きながら、どっかで聞いたことあるフレーズをローテンションで奏でる。
 微妙に噛み合わない会話に気付いたのか、会長は人を食ったような笑顔で、悪びれずに言った。

「ああ、悪い悪い。言葉足りなかった。あんたとさえちゃん、部屋交代ね」
「何で?」
「当たり前でしょ?あんたたち、自ら大々的に付き合ってること公表しちゃったんじゃない」

 あー、そっか。

「その二人が隣同士じゃ、さすがに言い訳できないでしょ?せめて一階と二階に分かれてもらわないと」
「…確かに」
「いつ何時、学園側に追及されるか分かんないし、今日の夕食までにはキッチリ片つけておいてね」
「きょ…って、あと何時間もないじゃんかよ!」
「もとはと言えばあんたたちが発端。お昼まで放置しといたげたんだから、有難く思いなさい」
「はぁぁ…わかったよ」

 盛大に肩を落としていると、背中から生霊の恨み声が聞こえてきた。

「わかったよ、じゃないわよぉ星野のバカぁ…わたしの休日を、かぁえぇせぇぇぇ」
「えっと、いちばん休日返してほしいのは、無関係なのに家具運ばされてるあたしなんだけどぉ…」

 声のした方へ振り返ると、手拭いでほっかむりをしたさえちゃんが、涙目で俺を見据えていた。
 その傍らでは、ジャージ姿の凛奈が、余りのさえちゃんのぶっちゃけっぷりに、苦笑する他なく佇んでいる。

「あー、俺が言うのも何だけどさ。さえちゃん、仮にも寮長なんだし」
「なんだし、なによぉ」
「一応、寮の治安維持のための作業なんでしょ?どっちかっつーと率先してやるもんなんじゃね?」
「今日は休日だもん!星野のとばっちりだもん!」

 予想できた物言いではあるんだが、あんたほんとに責任者か?

「などと職務意識の低い発言が出るものと見越して、あたしが凛奈に頼んどいたんだけどねえ?」
「なるほど。凛奈お疲れ。悪いな、とばっちり喰らわして」
「あ、あはは、あたしはほら、どのみち休みでも身体は動かすし、だいじょぶだいじょぶ」
「わ、わたしへの労いの言葉はぁ!?」
「トップがいちいち飴を期待しないの、みっともない」
「ぐぅぅぅぅ…!」

 さえちゃんの抗議は、会長が鮮やかに一蹴。
 何つーか、格が違い過ぎる。

「やれやれ。んじゃ、さえちゃんを早めに解放するためにも、始めますか」

 食卓から立ち上がり、伸びをひとつ。できれば今日はのんびりしたかったんだけどなあ。

「海己ー、あとでサンドイッチでも持ってきてくれー。…んで凛奈、そっちの進み具合は?」
「いやもう、誰かさんのB型っぷりが遺憾なく発揮されててねえ。横道逸れまくりでほとんど。布団とか鏡台とか大物はもう廊下に出してあるんだけど」
「B型で悪かったわねぇぇぇ。大人の女にはいろいろ整理しなきゃならないものがあるの!」
「…2分ごとにに手を止めて、アルバム眺めたりマンガ見たりしてる人が、こんなこと言うんだよ?」
「凛奈、ほんっとにお疲れな」

 前言撤回。
 凛奈を早めに解放するためにも、俺のほうの片付けを急がなきゃなあ。


 -3-

「よいせ…っと」

 背後の気配を気にしながら、なるべく時間をかけて、本棚の本を一冊一冊、段ボールに移していく。
 俺の後方では海己が、壁のピンナップを一枚一枚丁寧に剥がして、折り目がつかないよう綺麗に整理している。

「な、なあ海己、やっぱ俺一人でやるからさあ?」
「え?だ、だって、航一人だと絶対横道に逸れるから、って奈緒子さんが」
「さえちゃん並みの信用しか無いのか俺」
「い、一応先生と同じくらい信用されてる、ってことに…」

 お目付け役をつけられて、俺は進退ここに窮まった。いや、作業をする気がないとか、そんなんじゃない。
 俺が上がってきて程なく、サンドイッチをお盆に乗っけて海己が上がってきた。それは非常に有難い。問題は、その海己が俺の作業手伝い兼、会長に仰せつかった見張り役として、俺の部屋に居座っていること。
 宮や静みたいな、戦力になるかも怪しい奴らを付けられるよりは、格段にいい。ただ、そうやってずっと付きっ切りになっていると、俺の段取りが狂う面もあるわけで。

「それにあれだ、海己も他にやることあるだろ?ここんとこ学園祭にかかりっきりだったし」
「それはそうだけど…」
「畑とかさ、雑草は枯れてきてるけど、まだ虫取りとか必要なんだろ?」
「う、うん…」
「俺はほら、一人でも何とかなるし」
「…ねえ」

 海己が作業の手を止めて、不安そうな目をこちらに向けてくる。

「航は…航は、わたしのこと、邪魔、なのかな?」

 実は、ある意味とっても。
 なにせ、海己が横にいたら、本棚の裏のアレとか、タンスの奥のアレとか、天井裏に退避させてたアレとか色々なものが片付かない。となると、自然と段取りが崩れて、作業効率も悪くなる。
 …なんて口に出して言えるはずもなく。

「え?い、いや、そーいうわけじゃ、ないんだけど」
「じゃあ、なんで目を逸らすの?」
「え、えーと、いや、ほら、なんだ…そ、そう、そんなに急がなくっても、ゆっくりやればいいし」
「だ、駄目だよそんなの。夕食までに終わらせるって、奈緒子さんと約束したんでしょ?」
「今夜中に終われば、別に問題ないと思うけどなあ。今日抜き打ち検査ってわけでもないだろうし」
「ううん、駄目…駄目だよ…」
「……」

 会話が途切れる。そして嫌な予感がする。

「…うぅ…ぐす…ひっく…ぅ、ぅぅ…」
「だああああっ!だからなんでそーなるかなあっ!」

 こうなっては作業そのものが続行不可能なわけで。
 結局、その場にぺたりと座り込んでしまった海己に付き合って、俺もすぐ脇に腰を下ろす。

「駄目だよ…ひっく…駄目なんだもん…ぅ…わたしたちが…巻き込んじゃ…ったこと…なんだよ?」
「…海己?」
「わたしたちが…やらなかったら…みんなに…迷惑…ひっく」
「うん…」
「だから…わたしたちが…っく…ちゃんとしなきゃ…」
 
 海己のスイッチが入っちゃったのは、俺が邪険に扱うとか、そんなことだけではなく。

 この部屋換えも、もとはといえば俺達のワガママが原因だから、尻拭いも誰にも文句を言われないよう自分たちの手で、という、海己自身の思い入れのほうが、勝ってしまっていたらしい。
 学園祭であんなことをしでかした後でも、やっぱり海己は海己なわけで、愚直に、俺と海己とが皆に祝福される道が閉ざされることのないよう、精一杯あがこうとしてて。

「…ごめんな」
「ううん…ごめんね」

 そんな気持ちを察しようとしないで、アレの心配ばっかりってのも、彼氏としてどんなもんだろう。俺も、ちょっと軽率だったかもな。そんな『ごめん』も込めて、くしゃくしゃと海己の頭を撫でてやる。

「ん…」

 泣き顔が少しずつ鳴りを潜めて、気持ちよさそうに、頭を攪拌されることに身を委ねる、海己。
 しばらく、二人でそこに座っていたが、海己も時間がないことを察してるのか、

「ごめんね、もう、大丈夫だから」

 ごしごしと目元をぬぐって、無理にでも笑ってこっちを向いてみせる。

「ん。じゃあ、もうひと働き…の前に、海己、お前ちょっと下行って、さえちゃんたちの進み具合見てきてくれ」
「うん、わかった」

 二人して立ち上がって、海己は何の疑問も抱かずに扉の外へ。
 …さあ、限られた時間の間に作業開始だ。俺は急いで作業途中の段ボールを引き寄せ、本棚の前へ。

 本棚の裏のアレと、タンスの奥のアレを回収し、手早く箱へと滑り込ませる。あとは天井裏のアレを回収して上から参考書で蓋をすればOK。タンスの上に登って羽目板を外して、と…

「先輩せんぱい!お手伝いにきまし…あ、その箱に本を詰めていけばいいんですね?」
「み、見ないでえええっ!」


 -4-

「よーし、そっちしっかり持ってな」
「オッケー。航、ちゃんと踏ん張ってよね」
「はいよ。せーのっ!」

 11月ともなれば、日没も早い。
 そろそろ夕焼けの色が窓にも映りはじめる中、俺と凛奈は作業のヤマ場を迎えていた。

 小物が片付いてきたのを見計らい、一階の廊下にあるさえちゃんの家具を二階へ、折り返しで俺の家具を一階へ、というピストン輸送。なにせ普通の荷運びとは違い、それなりの重量を抱えての階段の昇り降りだ。作業にあたれるのは、必然的に俺と、あとは本来全くの無関係な凛奈くらいなわけで。

「よっし、そのまま、そのまま…踊り場回って…もいっちょ上…よーし、いったん下ろすぞー」

 階段を昇るだけでもひと苦労。間違っても、比重のかかる下側を支える役目を、女の子にやらせるわけにもいかず、

「うー…ごめん、ちと休憩。さすがに手が」
「航、だいじょうぶ?」

 必然的に俺の体力だけが、ごりごりと削り取られていく。

「航ぅ、今度はあたしが下側持つよ?」
「何言ってんだよ、下は重いし危ないんだぜ?どっちかが手滑らせたら直撃喰らうんだから」
「だーいじょーぶだってば。あたし、それなりに力あるの知ってるでしょ?」
「女の子に、んな危険なとこ、やらせられっかよ」
「ふ〜ん、いつもの勝負じゃ女の子扱いなんかしてくれないくせに?」

 申し出はそりゃ有難いけど、やっぱり凛奈は女の子だし、万一怪我したら競技にだって影響出るわけだし。これ以上こいつに気を遣わせても、なあ。

「っさいなあ、俺だって上になるとやり辛いんだって」
「あたしばっかり上じゃん。たまにはあたしが下になる!」
「だからあ、俺が下になったほうがお互い長持ちするだろ?」

 なんか、微妙にナマナマしい会話なのは置いとして。
 凛奈はむくれ顔を隠そうともせず、唇を尖らせて尚も俺に食い下がる。

「あたしがそうしたいって言ってるんだから、やらせてよ!」
「却下却下。そもそも、凛奈はこの引越しに関係ないだろ?」
「なによ!あたしが手伝うの、余計なお世話だっての!?」

 何とか凛奈を引き下がらせるために、つい口をついて出た拒絶の言葉が、逆に火に油を注ぐ。
 凛奈の目は、真っ直ぐに俺を見据え、その色合いは、より怒りとか哀しみとかが色濃くなっていき、そして、

「なにさ!どうせそうよ!今日だって、昨日だって、航にしてみりゃ、余計なお世話なんでしょ!?」
「や、そ、そういうわけじゃなくってさあ」 
「あたしは…あたしはね!」

 瞬きをするほどの間に、凛奈の瞳から、敵意と哀しみが、消えうせる。

「あたしは、自分でやってんのが、余計なお世話だと、はっきり思ってる。そんでもって、余計なお世話を焼きたがる自分が、ちょっと、好きになってきてる」
「…へ?」

 驚いた?とでも言うように、凛奈はにやりと口元を歪めてみせ、そして続ける。

「あたし、自分でも、こんなキャラだなんて思ってなかった。人と交わることは、どっちかっていうと苦手だった。でも、あんたに、腕一本折ってまで、余計なお世話を焼かれてみて、あたしは変わっちゃったんだ」
「凛奈…」
「余計なお世話を焼かれたときの、困っちゃうような、くすぐったいような、それでもあったかくて、嬉しくて…そんな気持ちを、あんたが植えつけちゃったから。だから、あたしは今、好きな人たちにはそうしていいんだ、って思ってる」
「そっか。…俺が、変えちまったか」
「ううん、変わったのは、あたし。航は、変わるきっかけをくれただけ。でもね。その変わるきっかけをくれたこと、あたしはすっごく感謝してる」

 悪戯っ子のようだった笑顔は、話が進むにつれて、嬉しくて仕方ないような笑顔に変わっていく。
 そうだよな。思い出すまでもなく、ここへ来た頃の凛奈は、こんな笑顔とは正反対の顔をしてて。
 俺の『余計なお世話』から先は、ほんとによく笑って、よく怒って、よく泣いて。そんな、本来の凛奈に戻るきっかけになれたんだから。

「うん。そうだな。じゃあ、少しは…感謝されて、いいかもな」
「そうだよ。だから、航は、腹を括って、あたしに余計なお世話を焼かれなさい!」

 俺のほうこそ、感謝したい…なんてこと、今更照れ臭くって、言えないけどな。

「よし、休憩終わり!じゃあ、今度俺がバテてきたら、凛奈が下で、頼むな」
「うん、任せといて!」

 もうひと踏ん張り。こいつと一緒なら、どれだけでも頑張れる気がする。


 -5-

 二階の俺の部屋と寸分違わぬ場所に、海己が丁寧にピンナップを貼っていく。
 俺の荷物の整理も、もうほとんど終盤戦だ。

「最後の一枚…ん…っと、完成、かな?」

 海己の呟きに、俺も顔を上げて、新たな、これから約四ヶ月の間の住処を、ぐるりと見回す。
 例のアレが詰まった箱こそ開けていないものの、ほぼ今までどおりの陣容。

「完成、だな…うーん、ただこの、部屋の匂いだけは、ちょっと、なんつーか」

 困るなあ、と言いつつ、内心ちょっと嬉しい俺がいる。
 何しろ急な引越し命令で、丁寧に掃除がしてあるわけじゃない。なので、今この部屋はというと、さえちゃんのファンデーションの匂いとかシャンプーの匂いとか、そんな残り香が満ちている。
 まあ、中身『あんなの』でも、客観的に見れば美人女教師なわけですし。

「航、部屋の匂い気になる?消臭剤、まだあると思うけど…」
「いやいやいやいや!ほら、そんなわざわざ使うほどのもんでもないから!」
「そ、それならいいけど…そんな慌てて返事しなくてもいいのに」

 男っていうのは、そういう生き物なんです。

「いやまーほら、こっちはこれでいいとして。海己、これから晩の支度だろ?行こうぜ」
「うん、今日はあんまり手の込んだもの、作れないかなあ」

 海己を促して、一緒に廊下に出る。さすがに海己もお疲れ気味な様子だ。
 よくよく考えてみれば、こいつも学園祭からこっち、ほとんどのんびりしてない筈だし。悪いこと、しちまったなあ。

「何か俺も手伝うことあるか?」
「え?いいよ、航は休んでて。重いもの運んだりしてたでしょ?」
「大丈夫大丈夫。みんな待ってるだろうし、俺が休んでても逆に怒られる」
「うーん…航にできることかぁ…」

 真剣に考え込まないでくれ、さすがに情けなくなる。
 そんな事を言い合いながら、食堂のドアを開けると、その瞬間。


 ぱぁん!ぱんぱぁん!ぱぁん!

「「「「「 おめでとう、航、海己!! 」」」」」


 きっちり人数分の破裂音と紙テープに、俺と海己は出迎えられた。

「な…な…な?」
「…みんな…これって…?」

 会長が、宮が、静が、さえちゃんが、凛奈が、みんながみんな、してやったり、の表情。
 食堂をぐるりと見回すと、綺麗に片付けられ、クロスが取り替えられたテーブルの上には、いつの間に用意していたのか、オードブルを中心にした、パーティー用の色とりどりの食事。

「な、な…なにごと?」

 我ながら間抜けな第一声に反応して、珍しくお嬢様らしい優雅な物腰で、宮が恭しく一礼し、口上を述べる。

「ようこそ、星野航・海己ご夫妻の結婚式二次会の会場へ」
「え…え…えええええええ?」

 海己の、戸惑いと驚きと嬉しさを一気に凝縮したような声が響きわたる。
 俺はというと、余りにもスケールのでか過ぎる冗談に気圧されて、ようやっと一言だけ。

「結婚式…って、おい」
「昨日はそのまま流れ解散だったからねえ。親しいもんだけで改めて二次会があって、当然じゃない」

 ……。
 有難いと言うか、そこまでして冷やかしたいのか、と言うか。

「そのために、わざわざ引越し命令なんて出して、俺と海己を釘付けにしたと?」
「ううん、それはそれ、これはこれ。どの道部屋換えは必要だったし、一挙両得」

 会長の種明かしの言葉に、さえちゃんが何故か溜息をつく。

「ほんとは、今日はただのサプライズパーティーって話だったのにさ。今朝になって浅倉が急に『今日引越しもやっちゃおう』って。休みが潰されたのは事実ぅ!」
「とか何とか言って、さえちゃんがいちばん楽しみにしてたよねぇ〜?」
「さえり、料理の相談してるとき、すごくにこにこしてたもんね〜」
「うるさぁい!あんたたち、大人を馬鹿にするなぁ!」

 その溜息は毎度の如く、たちまち会長と静に混ぜっ返される。

「でも、これ誰が作ったんだ?海己以外でこんな芸当が出来るのって」
「昨日サザンフィッシュに泊まったときに、マスターにオーダーしといたんだよ、これ」

 そっちの疑問には、凛奈が答えをくれた。なるほど、昨日の夜から企画されてたわけか。

「搬入の際に先輩が現れたら大変だったので、なるべく誰かしらが傍にいるよう、奈緒子先輩から
命令されてたんです。そのおかげで、思わぬ場面に出くわし…むぐぐぐ」
「そそそそそうか!ありがとうみんな!」

 宮の解説がいらん方向に及びそうなのを、寸でのところで塞ぎに掛かる。
 ほんっと、機密性の低い奴だ。

「航、宮ちゃん、どうしたの?」
「いや、ほら、あんまりしっかり種明かしを聞くのも、興醒めってやつじゃん?」

 ひと睨みをきかせてから宮を解き放ち、改めて、そこにいる面々を見回す。

「まあ、何て言うか、俺達のために、ヒマだなあお前ら」
「…さ、さすが先輩ですね、ちょっとは感動してもよさそうなとこなのに、台無しです」
「航だもん、しょーがないよ」
「そうね、星野だもんね」
「わたる、かっこわるい」

 ちょっと本音を口にしただけでこの袋叩きっぷりは何だ。

「わ、航ぅ。みんながせっかく…なのに、言いすぎだよぅ」

 海己まで寝返りやがる始末。

「……」

 いちばんキッツイこと言いそうな会長は、じっとこちらを見据えたまま沈黙を守っていて、俺の恐怖感がピークに達したときに、

「海己、あんた、何てことしてくれたんだい?正面切って学園側にケンカ売って、あたしたちの言いたいこと、全部言ってくれちゃって。これで、諦めてた勝負が、下駄を履くまでわかんなくなっちゃったじゃないのさ」
「いやまて心の準備が…え?」
「奈緒子…さん?」

 予想しなかった方向へと、その矛先を向ける。
 会長は、俺のビビり具合をふっと鼻で笑うと、海己に向けて容赦なく、本当に心の底からの笑顔で、追い討ちをかける。

「あんたたちが、海己と航が矢面に立ってくれたおかげで、あたしたちも、腹を括らざるを得なくなっちまった。春まで無事過ごせればいい、なんて甘い考えじゃなくって、最後まであがいて、ここを守りたいって、心から思っちまった。どうしてくれんのよ?」
「そうですよ海己先輩。わたしも、六条の力を借りるのは不本意でしたけど、形振り構っていられない、って思っちゃいましたから。お父様に叱られたら、どうしてくれるんですか?」

 会長の尻馬に乗っかって、宮も悪辣な言葉を、満面のにこにこ顔で投げかける。

「しょ〜がない、しずも手伝ってやっか〜」
「あーあ、こいつら面と向かって学園に歯向かう気になっちゃった。でも、わたしはダメ教師だから、寮の中でこんな決起集会なんてやってても、知ったことじゃないもんねー」

 静と、さえちゃんが、他人事のように、しれっと恭順の意を示す。

「みんな…ご、ごめんね、ごめんなさい…わたしたちの我が侭で、こんなことに…」
「違うよ、海己。そうしたのは、あたしたち自身の意思だ」

 空気を読まず、場違いな謝罪をはじめる海己を、会長が優しく、それでもきっぱりと、たしなめる。

「まだ『自分たちのワガママに巻き込んだ』なんて思ってる、バカな子がいるといけないから言っとくけどね。そのバカな子たちが起こした騒動が、あたしたちの目を覚ましてくれた。おかげで、あたしたちは自分の戦いを始められる。だから、そのバカな子たちには感謝しなきゃいけない」
「…ぐすっ…奈緒子さぁん…」
「もう、だから泣かないの海己。あんたは、胸を張っていい」
「…うぅ…ぁ…な…ぉ…ひっく…」

 泣かないの、で泣き止めば苦労はない。言葉を継げなくなってしまった海己を、会長が優しく抱きとめる。

「結局、あんたと海己は、あたしたちみんなを、今までよりも強く、結び付けちゃった。ほんと、何てことしてくれるんだろう。あんたたち、どれだけ人の気持ちを変えさせていけば、気が済むわけ?」

 いつの間にか俺の傍らに、それでも寄り添うほど近くもなく。表向き、憎まれ口を叩いている凛奈の表情は、もちろん、すごく嬉しそうで。

「あたしたちだけじゃないんだよ。ほら、これ」

 そう言って凛奈が俺に差し出してきた封筒は、茶色の、いかにも無骨な、事務用の封筒。

「さっき紀子が持ってきてくれたんだ。ほんとは雅文君がお父さんから頼まれたんだけど、今謹慎だからって」

 封を開くと、それは昨日の騒動の中心にあった、薄っぺらいガリ版刷りの紙片が、数枚。
 星野一誠。
 星野奈津江。
 内山延年。
 昨日回収した署名用紙には見つけられなかった名前が、そこにはあった。

「じいちゃん…ばあちゃん…」
「航たちが変えちゃったのは、あたしたちだけじゃ、ないんだよ」

 凛奈の言うとおりなのかもしれない。
 じいちゃんとばあちゃんは、今まで、こういったことに軽々しく名前を貸す真似は、してこなかった。
 自分の言葉がどれだけ重いか、理解しているから。
 それでも、俺と海己のこと、全部聞いた上で、いちどは反対したことも承知で、考えた末に、ここに賛成票を投じてくれた。
 それが、俺にとってどれだけ、重く、そして、勇気になるかを、恐らくは承知の上で。

「そっか…海己、お前すげえよ。こんなこと、できるなんて…さ…」
「うん。ほんと、すごいって思う。だから…あたしがかなわなかったのも、当たり前なんだろうね」
「ん?何だそれ?」
「何でもなーいっ!って航、あんた、案外泣き虫だよね?」
「だっ…!誰がっ!これは、あれだ、安心したらあくびがだなあ!」
「はいはい、乾杯するからそろそろ座りなさい、あんたたち」

 凛奈とのじゃれ合いを、ようやく海己をなだめた会長が、びしっと押さえ込む。
 それを合図に、全員がテーブルのそれぞれの席へと。

「飲み物は行き渡ったね?それじゃ、本日発足の『つぐみ寮を守る会』会長として乾杯の音頭を取りまーす」
「いつ浅倉が会長だって決まったのよぉ!」
「他に適任者がいるとでも?それともさえちゃん、そんなに学園とのケンカの正面に立ちたい?」
「ぐぅぅぅ…!」

 会長が自信満々に、自分勝手な宣言をかます。

 俺と海己も、隣り合わせでグラスを持ち上げ、少しだけ、目配せを交わす。
 俺たちは、本当に、素晴らしい仲間に囲まれて、この素晴らしい時間を過ごすことができて。
 だから、その素晴らしい仲間と時間をくれた、この素晴らしい場所を、何がなんでも、守りたい。
 恐れとか、不安とか、そんなものを、綺麗に吹き飛ばした晴れやかな心で、二人で歩いていける。そう思えるのは、やっぱり、みんながいるから、そして、このつぐみ寮があるから。

「では、航と海己の将来と、あたしたちの来るべき勝利を祈念して…乾杯!」
「「「「「 乾杯! 」」」」」



fin




作者コメント

 こんにゃく祭開催、おめでとうございます。
 SS書きとして活動をはじめてひと月半ほどの若輩者ですが、思い切って投稿してみました。

 舞台は海己ルートの学園祭翌日、ちょっとルート内で気になったことの自己脳内補完のために書いたようなものです。航×海己と見せかけて、航×凛奈な気がしますが。
 海己エンドが、私が思うにいちばんハッピーエンドに近いエンドだと思います。唯一、つぐみ寮の保存に成功してますし。なので、多少『約束の日』につなげにくい展開もアリなんじゃ?と思ってこんなお話をでっち上げてみた次第です。
 描写力がまだまだなので、ラブ臭のする『甘い』展開よりも、青春ものとしての『甘い』展開に偏ってしまった気がします。まあ、こんにゃくだったらそれもアリかなあ?と。
(お前の考えがいちばん『甘い』とゆーツッコミは無しな方向で)

Written by 和牛