天才少女とだーりん

 あの日、秋葉原中央通りで奇跡的な再会を遂げた俺と紅莉栖。
 タイムトラベルによる過去の改変の影響で俺以外にはかつての――他の世界線の記憶は残っていないはずなのに。
『また会えたな、クリスティーナ――』
『いや、だから私はクリスティーナでも助手でもないって言っとろう――』
 俺たちの積み重ねてきたもの全てが『なかったこと』にされるわけではなかった。
 もちろんその全てを記憶しているわけではないようだが、とにかく俺は紅莉栖を我らがラボ――未来ガジェット研究所へと案内し、他のラボメンにも紹介した。
 そしてそれから十日も経っただろうか。帰国の予定をしばらく先送りすることにしたらしい紅莉栖は毎日のようにこのラボに通い――
「フハハハハ、これも運命石の扉の選択ということか」
「はいはい、厨二病乙」
 ソファーに座って難しそうな洋書を読みつつ、顔を上げることすらなくばっさり切って捨てていた。
 いやまあ、ある意味見慣れた光景というかいつも通りの光景なんだが。その証拠にまゆりはそんな助手と俺の方を見て幸せそうにニコニコしてるし。
 とは言っても再会したばかりの時の紅莉栖は、あの会話以外は礼儀正しく敬語で話してきていた。そして俺の希望――いや、妄想――いやいや、見間違いでなければ紅莉栖の眼差しはその、アレだ。好意とかそれに類するものが見えていたような。きっと。いや多分。ひょっとして。
 しかしながら現状は前述したとおりのツンデレっぷりであり、まさに『どうしてこうなった』という言葉がぴったりな状態だった。
 ここは一つ科学者らしく一つ一つ出来事を順序立てて振り返り、原因を究明してみようと思う。
 あの日、再会してラボメンの証であるバッジを渡してラボへと案内したとき。タイミング悪くダルは出ていたのでまずまゆりを紹介し、訪問してきた萌郁を紹介し、フェイリスを紹介した。
 何も悪いことはしていない。ただちょっと『ラボのメンバーを紹介しよう』と言って紹介したのが全員女性だっただけで。
 もちろんそれは単なる偶然であり、別に『ラボメンは女性限定』とか萌え系ハーレムラノベみたいなことを決めているわけではないのだ。だというのに紅莉栖はきゃんきゃんと文句をつけてくるので、買い出し中らしいダルを呼び戻し――戻ってきたダルは『パーツを買い出しに行って帰ってきたら親友がハーレムエロゲの主人公になっていたでござる』などとふざけたことをぬかして見事に油を注ぎやがったので、もう一人の男性メンバーを緊急召還した。
 ……今になって冷静に考えてみると、そこでルカ子を呼んで状況が改善するわけはないのだが。
 とにかくその日は色々大変だった。
 そしてその翌々日。
 あの日の紅莉栖は大人しいというかしおらしいというか、妙に殊勝な感じだった。
 まあ冷静に考えてみれば俺の周りに女性が多かろうと紅莉栖に怒る理由や権利が――いやないというのも少し寂し――とにかく紅莉栖はホテルの自室に帰ってから反省したらしく、『お詫びというわけではなく手みやげ代わりに』と言って論文を持ってきた。
 十八歳にしてサイエンス誌に論文が掲載される天才少女の新しい論文である。正直なところその全てを理解できるかと言われると不安はあるが、仲直りの印のように差し出された論文を俺は笑顔で受け取り。
「ちなみに、どんな論文なのだ?」
「うん、実は以前書いたもの焼き直しなんだけど――」
 促されるままに封筒を開け、中の書類を取り出して読んでみる。
「重力変移を利用したタイムトラベル理論」
「没だっ!」
「何でよっ!」
 危険物にもほどがあった。あれだけ大変な思いというか比喩ではなく本当に死ぬような思いをして絶望的な未来を回避したというのに、またそこに舞い戻ろうというのかこの助手は。
「読みもしないで没とかどういうこと? まず説明を聞きなさいよ!」
「ええい、とにかく没だ没! 我が未来ガジェット研究所においてタイムトラベルとそれに類する研究は御法度だ!」
「ハッ、理論を検証することすらせず『危険だからダメ』とか。狂気のマッドサイエンティスト・鳳凰院凶真さんってずいぶん安定嗜好なんですね」
「なんだと、クリスティーナ! この俺の深謀遠慮を理解できないとは、助手失格だぞ!」
「はいはい、浅謀近慮乙―。っていうか助手じゃないって言っとろうが!」
「クリスちゃんとオカリン、ホント仲いいねー」
「氏ねよマジで」
「「なっ――!?」」
 そんなやりとりの後、まゆりの仲裁もあって比較的冷静になった俺と紅莉栖は話し合い、ついでにダルとまゆりの賛成も得て『タイムトラベル関連の研究禁止』という規則を決定した。紅莉栖は納得いかないのかふくれっ面だったが、タイムトラベルやそれに類する行為での過去改変の危険性に関して俺以上に説明できる人間はこの世界には存在するまい。少なくとも現在は。
 ともかくそんなことがあった後にまゆりに言われて『仲直りの握手』をし、『リア充爆発しろ』とわめくダルを無視したりしつつ、それから十日ほど。
 帰国はしばらく後にすることに決めたらしい紅莉栖は当然と言えば当然だが未来ガジェット研究所の一員としてすっかり馴染んでいた。
 紅莉栖がソファーに座って洋書を読みふけり、まゆりは幸せそうにジューシー唐揚げナンバーワンをぱくついている。なんてことのない、見慣れた光景。しかし俺はこの『日常』がかけがえのないものである事を知っている。そのために様々なものを犠牲にしてあがき続けたのだ。
 強いて以前と違う事を上げるというのなら、フェイリスや萌郁、それにルカ子がラボメンとして顔を出すようになったと言うこと。残念ながらジャージの少女がここに来ることはないだろうけど、それはあいつが望んだことなのだ。七年後の再会を楽しみに待つことにしよう。
 ……それが本当に実現するのかそこはかとなく不安だったりするのだが。この世界線《シュタインズゲート》における未来は完全に未知であり不確定なのだ。しかしそのせいで生まれることが出来なくなったとか不憫すぎる。まあいい、多分それは余計なお世話だ。というかぶっちゃけその手の問題で助けになれる自信はない。自分のことで手一杯だし。間違っても口には出せないが。
 そんなことを思いつつ紅莉栖の方に目を向けると、視線がぶつかった。お互い気づいて慌てて目をそらす。
 本当に自分のことで精一杯なのだ。狂気のマッドサイエンティストとか魔眼《リーディング・シュタイナー》とか、天才少女とかサイエンス誌に論文が載ったとか、そんなことは日常生活においては欠片も役に立ちゃしないのだった。
「ねえねえオカリン」
「ん?」
「肩の所、ほつれてるよー?」
「本当だな」
 唐揚げを食べ終えたらしいまゆりに言われて見てみると、確かに白衣の肩口がほつれていた。
「貸して、縫ってあげる」
「ああ、すまんな」
 言われるとおりに白衣を脱いで手渡すと、まゆりはソーイングセットを取り出し、手際よく縫いはじめた。自分でコスプレ衣装を作っている事からもわかるとおり、まゆりの裁縫の腕はかなりのものである。糸はちゃんと目立たない色を選ぶし、手際もいい。
 何気なく紅莉栖の方に目をやると、慌てて本に視線を落とした。こっちを見ていたのはバレバレだった。
 いやでもしかし、ここで紅莉栖に「縫ってくれないか」というのはいくら何でも不自然だし、それでも頼みたい気はするが正直なところ紅莉栖との距離感を掴みきれない部分もあり。まゆりの言うことをうのみにするわけじゃないが、紅莉栖も俺のことを嫌ってはいないと思うのだが。
 そんな思考の迷宮を彷徨っていたら、ラボの扉が勢いよく開かれた。
「闘いの時は今!」
 開口一番そう宣言した我が頼れる右腕の両手には、コミマの時ほどではないがふくれあがった紙袋が提げられていた。
「ああ、もう月末か」
「月末の金曜日だもん、しょうがないよー」
「え、何? 何なの?」
「エロゲの発売日だろう常考」
「知るかあっ!」
 ああ、なんだか懐かしいやりとりだ。あれはどこの世界線の記憶だったか。
 あのときも同じようなやりとりをしたと思うが、結局のところダルのエロゲプレイを止めることができるわけもなく――こいつ、結婚して子供産まれてもエロゲやめないだろうなあ。
「とにかく、人の見てる前でエロゲをするなんて非常識よ!」
「この僕のエロゲプレイを止めることは、神様にだって出来ないお!」
 そして言い争いはヒートアップしていた。まあ人前でエロゲすることに関しては色々意見もあるだろうが、ダルに『エロゲするな』というのはまゆりに『間食するな』というのと同等な話であり、つまりそんなことをしたら世界がヤバイ。
 実際の所ダルの『エロゲプレイ』は本当にプレイするだけであり、それ以上の行為には――少なくとも俺たちのいる時には及ばないので気にしなければいいと思うのだが。
「岡部、あんたからも何か言ってやって!」
 紅莉栖は気になるらしい。
 まあ確かに俺とまゆりは慣れてるので気にならないとはいえ、それをラボメン全員に求めるのは酷なのかもしれない。とは言ってもフェイリスは気にしないだろうしルカ子は男で萌郁は……想像できん。α世界線での萌郁の家にはパソコンがなかったはずだが、この世界線でどうなのかは聞いてみたことがない。
「別に良いではないか。俺は気にならないし、まゆりも気にならないと言っている」
「私が気になるの!」
 とりあえず、他のメンツがどうであろうと紅莉栖に譲る気はないらしい。
 ふむ、しょうがない。これも気づけば総勢八人と大所帯になった未来ガジェット研究所の所長としての務めか。そう思って俺はダルに声をかける。
「ダルよ、こんな明るいうちからでは気分も出ないだろうし、もう少し後でもいいのではないか?」
「ちょ、オカリン。裏切ったな!?」
「そうではない、ただ少し配慮をだな」
 そう、少しだけ妥協をして貰えばいい。ダルがエロゲをプレイするPCは開発室に置いてあるのだから、どうしても我慢できないというのならカーテンを閉め、ヘッドフォンを装着してプレイして貰えばいいのだ。
 灰色の脳細胞をフル稼働させてそんな結論を導き出していたのだが、俺の同意を得て勢いづいたのか、紅莉栖はダルに詰め寄っていた。
「そうよ橋田。個人の趣味をとやかくいうのもなんだけど、少しはTPOをわきまえなさい」
「なんだよ二人揃って。オカリンだってまゆ氏の前でやってたじゃん!」
 時が止まった。
 そして永遠とも思えた一瞬の後に、紅莉栖がゆっくりとこっちに向き直る。
「なん……だと……?」
「ダル!」
「裏切り者に血の制裁だお」
 時既に遅すぎた。どうするべきかと悩む間にも状況は刻々と変化し、紅莉栖はまゆりに問いかける。
「本当なの? まゆり」
「うん」
 即答だった。
「岡部!」
「待て、俺がやったのはダルがやろうとしているようなエロ主体のゲームではなくストーリー重視のだな」
「そう言う問題じゃない!」
 いや確かにそう言う問題ではないんだろうけど俺のやってたのはアニメにもなったいわゆる『萌えゲー』というものであり、決してそれに劣情を催したりは――いや確かに無かったと言えば嘘になるが。
 そして紅莉栖の注意がこっちに向いた隙をつき、ダルは立ち上げっぱなしだったPCを操作しつつフヒヒと笑う。
「なんだよオカリン、セーブデータ消してもいいのかよ」
 ダルが開いたフォルダの中には『Save』と書かれたフォルダがあり、既に右クリックメニューが表示されていた。
「待て、それとこれとは――」
「お・か・べ?」
 いかん。つい反射的に答えてしまったが、痛恨のミスだった。我が助手クリスティーナこと牧瀬紅莉栖の表情は怒りに染まり、それは十五年の時を超えた復讐者を彷彿とさせる――というのはさすがに言い過ぎだったが、とにかく超恐いのは事実だった。
「ダルよ」
「何だお」
「戦略的撤退だ!」
 そう叫ぶと俺はダルの手を引き、走り出した。
「待ちなさい、岡部!」
 無論待つわけはない。

   ◇

「こら、待てぇー!」
「フゥーハハハ、待てと言われて待つヤツがいるものか!」
「お、オカリン。もうちょっとゆっくり」
 窓から顔を出して叫んでみるけど、細いのと太いのが戻ってくるわけもない。アイツら二人相手なら本気で追いかければ追いつけなくもないかもしれないけど、さすがにそこまでするのはちょっと。
「全くアイツらは」
 やり場のない苛立ちの処分に困ってソファーの上に身体を投げ出すように座る。
 いや本当にアイツらはっていうか橋田はともかく岡部はもう。
 我ながら信じられないほどのスピードでこのラボに馴染んでいるとは思うけど、アイツの言動には――慣れてきているのが悔しい。いや本当に。
 そんなことを考えていると、ドクターペッパーが差し出された。
「……まゆり?」
 問いかけてみたけど、まゆりは何も言わずにいつもの優しい笑顔を浮かべている。
 そして目の前に置かれたドクターペッパーは冷蔵庫から取り出したばかりなのか、よく冷えている。
 確かに、ここでイライラしていても何も始まらない。あの二人が――っていうか岡部が戻ってきたらどうするかは考えなければいけないのかもしれないけど、それにしても一度冷静になるべきだ。
 そう思って私はペットボトルのキャップを開け、よく冷えたドクターペッパーを流し込み。
「クリスちゃん、オカリンのこと好きだからイライラするんだよね」
 即吹いた。
 まるでコントかギャグ漫画のようにブーって音を立てて吹いた。私のドクペ返せ。
「いや、あの、ちょ、なにを」
「クリスちゃん、大丈夫!?」
 いきなり過ぎる爆弾発言に咳き込んでいたら、まゆりに優しく背中をさすられた。いや、その気持ちは嬉しいんだけど原因が自分の発言だって事を理解してるんだろうか、この娘は。
「オカリンは照れ屋さんだからねえ、優しく見守ってあげて欲しいのです」
「いや、だか、ら!」
 反論したいんだけど、気管に入ったドクターペッパーが強敵過ぎて上手く言葉が発音できない。
 とは言っても劇薬というわけでもないのでしばらくすれば落ちつくだろうけど、このまままゆりに一方的に話させておくと大変なことになる。きっと。
 かくなる上は、荒療治で一気に直すしか方法はない!
 そう決意して私は飲みかけのペットボトルを手に取り、その中身を一気に飲み干す。炭酸やらなにやらが喉を刺激してかなり苦しいが、何とか内容量の半分ほどを一気飲みしたところで落ちついた、気がする。
 よし、この気を逃さずまゆりに反論を――
「別に、オカリンがエッチなゲームやってたからって嫌いになったとかそう言うことはないんでしょ?」
「うん」
 しまった、反射的に頷いた。素直に。
 椎名まゆりの驚異的なコミュニケーション能力。
 岡部だったら「これぞまゆりの能力の一つ、『トゥルー・コンフェッション』だ!」とか言い出しそうな見事なそれの前には、研究ばっかでトモダチが少ない私なんかはひとたまりもなかった。
「ただちょっと不安なだけなんだよね?」
「……うん」
 誤魔化せないことを自覚できたからか、自分でも驚くほど素直にそう答えていた。
「再会できて岡部が覚えていてくれたのは嬉しかったし、このラボに案内してまゆりたちを紹介してくれたのも嬉しかったんだけど」
 そう、考えてみれば私と岡部は初対面に近かったのだ。ラジオ会館の階段で初めて出会い、発表会の会場で再会し。そして命を助けられた後に半月近い空白を経てからの再会。考えてみればあの時点で私と岡部は本当に数えるほどしか顔を合わせていないし、言葉も交わしていない。確かにそんな気はしなくて、むしろ長年連れ添った――いや、長年共に何かに打ち込んだような気もしたけど、実際には初対面に近い私との再会を喜んでくれて、このラボに案内してくれたのだ。破格の待遇と言っても過言ではないと思う。
「でも、岡部の周りって女の子ばっかじゃない」
 幼馴染みのまゆりに、ラボの下のお店でアルバイトをしているという萌郁さん。とどめとばかりに近所のメイド喫茶のナンバーワンメイド・フェイリス。
 ちなみに男のメンバーは岡部曰く頼れる右腕な橋田と漆原さん。……漆原さんを男性メンバーに数えるべきかというのは意見の分かれるところだと思うけど、それを別としても女性メンバーが多彩すぎて『それなんてエロゲ?』状態だった。
 まあその後色々あったけど、結局の所は、そう。
 私は自分自身に自信を持てないのだ。例え『サイエンス』氏に論文が載ろうと、世間に天才少女ともてはやされようと。
 岡部倫太郎に認めてもらえる自信が、全くと言っていいほど、持つことが出来ないのだ。
「でもね、オカリンはクリスちゃんのことを本当に大切に思ってるよ?」
「……本当?」
「うん。確かにオカリンの友達は女の人が多いけど、クリスちゃんを見るときは違うもん」
「でも……」
 まゆりが言うなら、そうなんだろう。岡部倫太郎の幼馴染みにして、未来ガジェット研究所の最古参メンバー。
「だからね、クリスちゃんもオカリンのことをもうちょっとだけ信じてあげた方がいいと思うのです」
「……うん」
 人を疑っていれば、敵は出来るけど味方は出来ない。勿論、そんなやつに友達が出来るはずもないし、それ以上の関係なんて言わずもがなだ。
「オカリンには後でまゆしぃがびしっと言っておくので、クリスちゃんもオカリンのことを少しずつわかっていけばいいと思うな」
「うん、わかった」
 未来ガジェット研究所ラボメンナンバー002・椎名まゆり。私より二つ年下で背も低い彼女だけど、やっぱり勝てる気がしない。
 実際、まゆりとその、そういう争いになったとしたら、全くもって勝てる気がしない。
 しかし、そんなまゆりは私の方をじっと見つめて笑顔を浮かべた。
「じゃあまず、手始めに――」
「何?」
 まさに天使のような――言ってみればまゆしぃマジ天使としか例えようのない、本当に邪気のない笑顔に癒されながら、まゆりの言葉を待つ。
 そう、私にその手の経験やノウハウがないことは紛れもない事実なのだ。そんな私のためにアドバイスをくれるというのだから、それを素直に受け入れるべきだろう。そう決意して、耳を傾ける。
「とりあえず、オカリンがお気に入りのゲームをやってみるといいと思うな」
「いや、その発想はおかしい」
 物事には限度というものがある。
「うん、クリスちゃん元気でたね」
「もう、まゆり!」
 どうやら私を元気づけるためにからかったらしいまゆりはそう言うと、悪戯っぽい笑顔を浮かべて立ち上がった。
「それじゃあ、まゆしぃは帰ろうと思います。クリスちゃんは?」
「私は……うん、もうちょっと残ってるわ」
「それじゃあまた明日ね。トゥットゥルー♪」
「トゥットゥルー」
 どうやら私が立ち直れたらしいことを確認して、安心したことを示すかのようにいつもの挨拶と共に帰るまゆりにそう返す。正直ちょっとだけ恥ずかしかったけど、それを聞いたまゆりは本当に嬉しそうにしてくれたので、言った甲斐は十分すぎるほどあった。
「……さて」
 ふと気づくと、ラボには一人きりだった。
 岡部と橋田はまだ帰ってこない――まあ、あの二人が揃って向かう場所なんて限られているので合流するのは簡単だと思うんだけど、さすがに今はそう言う気分にもなれない。
 ここはいい機会だと思って、ラボの整理をしながら自分の今までとこれからのことを少し考えてみよう。
 幸いにも母さんは私の日本滞在延長について文句を言わないどころか大賛成みたいなので――まあそれについては『命の恩人の男性と再会できて云々』とか言っちゃったせいもあるとは思うんだけど、とにかくしばらくの間は日本に滞在することになるわけだし、いつまでもホテル暮らしというわけにもいかないから、どこか住む場所を探すべきだろう。
 岡部は私のことをセレセブ――セレブ・セブンティーンとかわけのわからない呼び方をするけど、別に我が家はセレブというわけではないのだ。貯金はあるけど、それにも限度がある。
 となるとどこかでアルバイトを探さなきゃいけないんだけど――
 そんなことを考えていたら、PCの電源がつけっぱなしなことに気づいた。
 岡部たちが逃げ出したときから誰も触ってないので当然と言えば当然なんだけど、一応電源は落としておくべきなんだろうか。モニターの電源だけは落ちているようだけど、マウスを動かしてやるとデスクトップ画面が表示された。
「特に動かしているものはないみたいだけど……」
 一応タスクマネージャーを確認してみるけど、何も動いていない。強いて言えばフォルダが一つ開かれているだけだった。
 そう。橋田が岡部を「セーブデータ消すぞ」という何ともコメントしがたい脅迫のために開かれたフォルダ。
「……」
 私は、じっと立ちつくしていた。


   ◇


 緊急事態によりやむを得ずラボからの脱出より数分、俺達はセーフハウス第壱号に潜伏していた。
「お待たせしました。アイスコーヒー二つとチーズケーキですニャー♪」
「あ、ケーキはこっちだお」
「もちろんわかってるニャ。凶真はガムシロとミルクどうするニャ?」
「ええい、人がせっかく気分を出しているというのに!」
 空気を読まない我が右腕とメイドを叱責するが、二人とも全く気にしちゃいなかった。
 セーフハウス第壱号――そう、平たく言うならメイクイーン+ニャン2である。
 ちなみにフェイリスは一応聞いてきたものの、こっちの返事を待つことなくいつものごとくミルクとガムシロと両方入れて混ぜていた。もちろんこっちを見つめたままの、ダル曰くの『目を見て混ぜ混ぜ』状態で。落ち着かないことこの上ない。
「で、今日はどうしたのニャ?」
「フッ。実は“ヤツら”が――」
「例によって牧瀬氏から逃げてきたんだお」
「ちょ、ダル、おま――」
 フェイリスからの問いに答えようとしたらダルにインターセプトされた。
「にゃんだ、また夫婦喧嘩かニャ」
「いや、ちょっと待てフェイリス。別に俺は助手との口喧嘩に敗北したとかいうことではなく――」
「聞いたかニャ、ダルニャン。凶真がとうとう『夫婦』のところを訂正しなくなったニャ」
「リア充はみんな爆発すればいい」
 そしてバツグンのチームワークで俺を攻め立てる。というか、気のせいでなければ二人からのみならず店にいる他の客からの視線も痛い。
 何故だ。俺はひとときの安息を求めてこのメイクイーンにやってきたというのに、責め立てられなければいけない。
「これも“機関”の――」
「夫婦喧嘩は猫も食わないってだけの話ニャ」
「……フェイリス、せめて最後まで言わせてくれ」
 そう言うとフェイリスは『ヤレヤレだニャ』とでも言うかのように首を振る。
「もちろん、我がメイクイーン+ニャン2はご主人様方のご来店を心からお待ちしているニャ。でもそんな凶真に毎回連れられてくるダルニャンにはいい迷惑だニャ!」
「いや、別に俺がいなくてもダルは毎日のように通っていると思うのだが」
「当たり前だろ常考! メイクイーンは僕の第二のふるさとだお!」
 というか、どちらかというとダルに気を遣ってここに逃げ込んでいる部分もあるのだが。徒歩三分の距離で逃げられているのかというと、そこは問題ない。紅莉栖はあの通りツンデレな上に自分の属性を隠そうとする習性があるので、一人でメイド喫茶に来られるわけがない。実は興味があるのは誰から見てもバレバレだというのに、全く往生際の悪い助手である。
「まあそんなことはどうでもいいニャ。この際だから凶真に一度はっきりと言っておきたいことがあるのニャ」
 よし、いつまでも言われっぱなしというわけにもいくまい。夫婦喧嘩云々はさておき、このままでは俺の立場がフェイリスより下になってしまう。以前の関係ならばそれでも良かったかもしれないが、今のフェイリスはメイクイーン+ニャン2のナンバーワンメイドであるのと同時に未来ガジェット研究所のナンバー007でもあるのだ。我がラボでこれ以上の下克上を許すわけにはいかない。
「ほう、何だフェイリス・ニャンニャン。言ってみるがいい」
 かくして俺が確固たる決意の元、鳳凰院凶真モードで不敵に笑ってそう答える。しかしその反応は予想していたのか、フェイリスもまたチェシャ猫のように笑い――
「もう付き合っちゃえよお前ら」
「ちょ、ま。おま――」
 爆弾発言もいいところだった。ニャンニャン語すら使ってなかった。
「それともクーニャンのこと、嫌いなのかニャ?」
「いや、だからそう言う問題ではなく」
「好きな子のことをいじめちゃうとか、小学生男子かっつーの!」
「ダル! お前は黙っていろ!」
 とりあえず横から茶々を入れてきたダルは黙らせるが、フェイリスには引く気がないらしい。いくらこっちは座っているとはいえ、身長差にすれば三十センチ以上もある俺に対しても全く怯むことなく、まっすぐこっちを見つめている。
「あー……」
 なんと言ったものかと一瞬悩んだが、すぐにそれは無駄だと気づいた。能力名《チェシャ猫の微笑(チェシャー・ブレイク)》フェイリスが持つ、人の嘘を見極める能力――いや実際の所は優れた観察力や洞察力といったものであり、決してスタンド能力やフォースの力というわけではないが、とにかくフェイリスに下手な嘘は通用しない。
 そんなことを俺に説明してくれたのは別な世界線のフェイリスだったが、多分そこは変わるまい。となるとやはり、下手なごまかしは利かないと言うことであり――
「ええい、くそ!」
 俺はアイスコーヒーを一気に飲み干すと、立ち上がる。
「お帰りですかニャ?」
 そしてそんな俺を見ても、フェイリスは全く驚くことなく――むしろ『全部お見通しですニャ』とでも言いたそうな笑顔でああもう本当に腹が立つ。
「……とりあえず、ラボに戻る」
「クーニャン、まだいるのか確認しなくていいのかニャ?」
「勘違いするな、俺はラボの責任者として設備の状況を確認しに行くだけだ!」
「はいはい、さっさと帰るといいニャ」
「……ふんっ!」
「行ってニャさいませ、ご主人様〜♪」
 かくして俺は、ナンバーワンメイドに見送られてメイクイーン+ニャン2を後にする。
「ダルニャン、おかわりはどうするニャ?」
「飲まなきゃやってられないお!」
「ダルニャンは凶真とクーニャンが仲良くするのは嫌なのかニャ?」
「……くそ、リア充爆発しろー!!!!!!」
 そんなダルの絶叫は聞こえなかった。
「ほらほら、今日の勘定は全部凶真につけておくから思う存分食べていくと言いニャン」
「メニューを上から全部順番に持ってこい!」
「かしこまりましたニャー」
 断じて聞こえなかった!

   ◇

 メイクイーンを脱出した俺は、無事ブラウン菅工房が見えるところまで辿り着いた。とは行っても徒歩三分であり、ちょっと寄り道をしてドクターペッパーとスナック菓子とカップラーメンを買ってきたりもしたが、それでも十分かからなかった。ちなみにこれらはラボの備蓄であってそれ以外に何の意図もない。本当だ。信じろ。
「お、岡部。帰ったのか」
「これはミスターブラウン、相変わらず暇そうですな」
「うるせぇ、大きなお世話だ」
 そんなやりとりをしつつ二階を見上げるとラボの窓は閉められているようだが、明かりはついている。まゆりは今日早めに帰ると言っていたし、フェイリスとダルはメイクイーンである。ルカ子はラボメンとはいっても一人でいるタイプではないし――
「ミスターブラウン」
「何だよ」
「その、萌郁は……」
「あ? バイトなら綯といっしょに散歩だ」
「あいつの業務内容は子守だったんですか」
「うるせぇ、いいんだよ。綯が懐いてるんだからしょうがないだろ」
 確かに萌郁が店番――とは言っても客が来ることはめったにないわけだが、とにかく綯がブラウン菅工房にいるときは萌郁にまとわりついていることが多い。まゆりにも懐いているようだが、それでも萌郁と一緒にいることが多いような気がする。
 しかし、今問題なのはそこではない。とにかくラボメンナンバー005の桐生萌郁は外出中と言うことであり、つまりラボにいるのが誰かというのは考えるまでもなく。いやしかし、ひょっとしたら電気をつけたまま帰ってしまったという可能性も。
「岡部」
「は、はいっ!? ……何かご用ですか、ミスターブラウン」
「とりあえず、喧嘩したなら早めに謝っといた方がいいぞ」
「何のことですかな?」
「お前、それで誤魔化せてるとは思ってねえよな?」
 そう言ってミスターブラウンは二階を見上げる。その口ぶりからすると、やはり二階にはまだ紅莉栖がいるのだろう。そして何故現在俺が置かれた状況をミスターブラウンが知っているのかというと――いやまあラボの防音性がほぼ無いことは周知の事実である。残念ながらミスターブラウンの耳が遠くなったという話も聞かないので、つまりそういうことだろう。
「好きな女に素直になれないっていうのはわからんでもないが――」
「な、何を言っているっ!?」
「年寄りのお節介だよ。女がヘソ曲げると大変だから、とりあえずこっちから謝っとけ」
 いかん。まさかフェイリスのみならず、このマッチョの筋肉オヤジにまでこの話題を。
「ほら。そんなところでぼけっと突っ立ってないで、さっさと行きな」
『いや、そもそも呼び止めたのは貴方だろう』とか言いたいことは色々あったが、ミスターブラウンは言いたいことは言い終えたということなのか、さっさとブラウン菅工房の奥へと引っ込んでしまった。
「えーと……」
 完全に取り残されてしまった。しかしいつまでもここでボーッとしているわけにもいかず、というか俺はラボに帰ってきたのである。
 そう。ミスターブラウンに呼び止められて調子が狂ってしまったが、俺がするべきことなど考えるまでもなく、ブラウン菅工房の脇にある薄汚れた階段を上りラボに向かうことであり――
「岡部、店の前で突っ立ってると邪魔だって言ったろ。さっさと行け」
「ええい、五月蠅い。客などいないではないか!」
 ブラウン菅工房の奥からいつになく愉快そうに声をかけてくる筋肉ダルマにそう告げて、一気に階段を駆け上る。そしてそのままドアを開け放ち――
「い、今帰ったぞ」
 若干警戒しながらそう告げると、中からガタガタと結構凄い物音がした。
 しかし誰も俺を出迎える様子はない。いや別に出迎えて欲しかったというわけではないが、返事がないのも不自然というか。それでもいつまでもこうして立っているわけにはいかないので中に入ると、PCのモニターが点灯していて、その前の椅子は打ち倒されていた。
 そして奥の方に目をやると、そろそろ日が暮れてきて暗くなった開発室の隅にぼんやりと人影が見える。
「……どうした? クリスティーナ」
「なんでもない! こっち見んな!」
 声をかけたら食い気味に怒られた。いつもだったら『ティーナって言うな』と言うお約束の反応が返ってくるはずなのだが、それもない。これは、よほど腹に据えかねているということなんだろうか。
 もしそうだとしても色々とこっちにも言いたいことはあるが、ミスターブラウンの意見を尊重するべき何だろうか。たしかに彼は基本的に娘とブラウン菅以外に興味はないとか言いつつ『たまには若い娘と話したい』などと漏らす中年だが、過去には結婚して妻と死別し、それからずっと娘を育ててきた人生の先駆者なのだ。その意見をたまには聞いてみてもいいのかもしれない。いや別にこの俺が紅莉栖に降伏するとかそういうことではなく、あくまでラボでの円滑な人間関係を守るために妥協するというだけのことだ。
 よし、そうと決まれば覚悟を決めよう。
 未だに暗がりから出てこようとしない紅莉栖に気づかれないよう、軽く深呼吸をしてから声をかける。
「怒らせてしまって、すまない」
「いや別に、そう言うわけでもないんだけど」
 なんだか微妙な反応だった。俺のプランとしては、怒っているんだったらとりあえずしばらくは下手に出て様子を見るつもりだったのだが……
「その、飲み物とか買ってきたが、いるか?」
「ううん、いい。冷蔵庫に入れといてくれれば後で飲むから」
「そうか」
 エサで釣るというわけでもないが、そんな提案をしてみても様子は変わらない。とりあえず自分の分を残して冷蔵庫にしまったが、その間も紅莉栖は出てこようとしない。
 それでもこっちの様子はうかがっているのか、視線は感じるものの出てこようとはせず。
 ええい、いつまでもこうしているわけにはいかない。進むにせよ戻るにせよ、とりあえずはこの膠着した状況を打破しなければ。
「えーと、俺は帰った方がいいか?」
「……そんなこと、ない」
 どうやら『怒ってない』というのは本当らしい。とすると紅莉栖の方が気まずいのかもしれない。自分で怒りすぎたと思ったとか――それもあんまりしっくりこないが、とりあえず俺はここにいていいらしい。いや、ここは俺のラボなのだが。
 プシュ、と音を立てて蓋を開けると同時に吹き出しそうになるドクターペッパーを口元に持って行って事なきを得る。コーラなどの他の炭酸飲料と比べても吹き出しやすいドクターペッパーを飲むとき、油断しているとこの攻撃によって大惨事になることがある。まあ今はTシャツなので汚れる心配もさほどないが――
「……ん?」
 白衣がなかった。そう言えばここを出て行く前にまゆりに預けたのだったが、まゆりの座っていた所には置いてない。ざっと見渡してみたところ、こっちの部屋には見つからない。
 ほつれていたとは言っても、そこまで酷くはなかった。まゆりの裁縫のスキルならあの程度のものを持ち帰らなければいけないということはないだろう。
「クリスティーナ、俺の白衣――」
「知らない知らない! 岡部の白衣なんて全然見てないし触ってない!」
 嘘のつけない女だった。
『触ってない』というのは意味がわからないが、開発室の方にあると言うことだろう。
 そう判断した俺は開発室の方へと――
「こっち来んな!」
 我がラボの助手は横暴きわまりなかった。そして、これまでミスターブラウンの忠告通りに下手に出続けていた俺だが、なにごとにも限界というものはある。
「白衣を着るだけだ。そもそもこの未来ガジェット研究所はこの俺のラボなのだから、行動を制限される言われもない」
「五月蠅い、別に白衣着なくたって死にゃしないわよ!」
「ならば、白衣をこっちに差し出せ。そうすればお前がその暗がりでどのようなHENTAI行為に耽っていようと俺は関与しないぞ?」
 最後にククク、と嘲笑してやる。
 即座に紅莉栖からの罵声が飛んでくると思って身構えていたのだが……反応がない。
「……どうした、クリスティーナ。この鳳凰院凶真のオーラに恐れをなしたか」
「そ、そんなわけあるか、このHENTAI!」
 なんだかいつになくボキャブラリーの貧困な紅莉栖と言い争いをしているうちに、だんだんと目が慣れてきた。開発室のカーテンの影あたりにうずくまっている紅莉栖が白衣を着ているのもしっかり見える。
「だからこっち見んなって言っとろうが!」
 そう叫ぶときもうずくまったまま。俺の目が慣れてきたことを察したからか、重力崩壊を起こしてブラックホールになりたいでも言うかのように縮こまっている。
「……フフン」
 ミスターブラウンは言った。「とりあえず謝っといた方がいいぞ」と。そして俺は、人生の先達たる年長者の意見を尊重して素直に謝った。
 しかしそれでも状況が改善されないのだから、ここからはこの俺のやり方を通させてもらおう。
「どうしたクリスティーナ。アメリカでは『人と話すときは目を見て話しましょう』と教わらなかったのか?」
「世界中でアンタだけには礼儀とかなんとか言われたくない!」
 からかう俺の言葉にそう返してくるものの、うずくまったままである。怒りに頬を染めてこっちをにらみつけてくるが、その体勢で睨まれても全然恐くない。
 これは天啓かもしれない。あの生意気な紅莉栖が俺の前にうずくまり、見上げてくる。ここは最近あやふやになりつつあるラボ内の序列をはっきりとさせるべきなのではないか。
 そうと決まれば話は早い。
「ほれ、いつまでもそうしているわけにはいくまい。立ち上がるのだ!」
「さ、触るなこのスケベ! HENTAI! 厨二病!」
「フゥアーッハッハ! その様にうずくまって言われても痛くも痒くもないな。悔しかったら立ち上がってみるがいい」
 事情は今ひとつ把握できないが、紅莉栖は立ち上がることが出来ないらしい。そして俺にここまで言われても効果的な反論が出来ないと言うことは、その理由を話せない事情があると言うこと。この千載一遇の好機、逃すわけにはいかない。
「なんだ、立てないというなら手伝ってやるぞ」
「さ、触るなこのHENTAI! セクハラで訴えるわよ!」
「フゥーハハハハハ! そんな言葉でこの狂気のマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真が止められるとでも――」
「まゆりに言うわよ」
 ギシリ、と。そんな音が立ったかのように、半ば無意識に動きが止まった。
 紅莉栖もここまで効果があるとは思わなかったのか、俺の動きが覿面に止まったのを見て驚き――そしてにやりと微笑んだ。
「あれ、狂気のマッドサイエンティストの鳳凰院凶真さんは幼馴染みのことが恐いのかなー? でもまゆりって鳳凰院さんの人質じゃなかったかしら。ぷぷぷー」
 わざわざ右手を口の所に当てて、しっかりと口に出してそう言った。
「鳳凰院さんってなんだかんだ言ってまゆりには弱いもんねー。まゆりに『オカリン、メッ!』とか言われちゃったら泣いちゃうかもー」
 勝機と見たのか畳みかけてくる紅莉栖。その表情からは自分の勝利を疑っていないことが見てとれる。
 くそ、コイツ相変わらず俺の弱いところを――いや別にまゆりが恐いとかそう言うことではなく、そもそも本当に告げ口したりしたら俺は確かに『メッ』とか言われるだろうが、その後『でも二人とも仲が良くてうらやましいのです』とか言われて自分も真っ赤になるんだろうに、学習能力がないのかこの女は。
 そう思っている間も勝利を確信した紅莉栖の口は止まらず――
「ほらほら、わかったらさっさと離れろっていうか一度ラボから出て行きなさい。十分ぐらい時間潰したら戻ってきていいから」
 そんな、まるで休日に床でごろごろ寝そべる駄目亭主を追い出す鬼嫁のようなことを言いつつ、ご丁寧にも『シッ、シッ』と野良犬を追い払うような仕草までして見せたので。
「ええい、黙って聞いていれば助手の分際で言いたい放題――」
「……え? 岡部?」
「もはや堪忍袋の緒が切れたわ! まずはそこから引きずり出してくれる」
「いや、ちょっと待ちなさい。いえ、待って! 言い過ぎたのは謝るから!」
 俺の怒りが頂点に達したことにようやっと気づいたのか紅莉栖が慌ててそう言うが、もう俺は止まらない。そう、俺は岡部倫太郎ではなく狂気のマッドサイエンティスト・鳳凰院凶真なのだ。狂人が常人の言葉で止まるなどということは、あり得ない。
「そうりゃあ!」
 白衣の襟元をひっつかみ、全力をもって引きずり出す。
 確かに俺は運動不足の大学生かもしれないが、それに対抗するのもまた運動不足の少女に過ぎない。例えその少女が天才で既に飛び級で大学を卒業し、アメリカの大学院に在籍していようと、その研究論文がサイエンス誌に載るような逸材であろうと、所詮は女性であり、俺との身長差は二十センチ近い。
 かくして紅莉栖の必死な抵抗も空しく――それでもギリギリまで持ちこたえていたが、俺が全体重をかけて引っ張り出すと、転がり出るように飛び出してきた。
 結果として俺も紅莉栖も立ってはいられず、半ばもつれるように明るい場所に転げ出て――
「フゥアーッハッハ! 見たか紅莉栖よ! いくら生意気なことを言っても、所詮は女の細う……で……」
 状況を説明しよう。
 俺は、ラボの生活スペース――テーブルやソファー、冷蔵庫やテレビ、それにPCなどが置いてあるスペースと開発室を隔てるカーテンの陰あたりに隠れ、うずくまっていた紅莉栖を力ずくで引っ張り出した。しかし強情きわまりない紅莉栖は最後の最後まで抵抗したため、俺が全体重をかけて引っ張り出した結果もつれるように生活スペースに転げでて――
 紅莉栖が、俺の下にいた。
 話をずいぶん戻すが、ダルの言うとおり俺もいわゆるエロゲ――最近では『美少女ゲーム』などと呼ばれるそれは何本かやったことがある。その内容は先に述べたとおり、どちらかというとストーリー重視と言われている物だ。しかしその中でも『曲がり角でぶつかって気がついたらヒロインを押し倒す体勢になっていた』などという場面を見る度に「いやいや、それはないわ」などと思っていたものだが――
 人と人がぶつかると、案外そう言う体勢になるものなのかもしれない。エロゲは正しかったのだ!
 いや、そんなことはどうでもいい。いや、良くないと思う人も多いかもしれないが、とりあえず聞いて欲しい。
 紅莉栖が着ているのは白衣であり、白衣というのは基本的に衣服の上に着る物である。更に言うならこのラボの制式白衣――とは言っても入手経路は安売り店だし着ているのは俺と紅莉栖だけだが、とにかくその白衣はコート型というか、前のボタンをきっちり閉めたりしないタイプのものである。もちろんボタンもついてはいるが、俺も紅莉栖もそれをしないで『着る』と言うより『羽織る』という感じであることが多い。
 そんな状態で転がり出たりすると、どうなるかというと。
 白衣の前がはだけるのである。
 いや、それだけなら何も驚くことはない。別に転がったり暴れたりしなくても、普通に動いていれば前は開いているのである。
 ただその場合、白衣の下に見えるものは衣服なわけだ。
 そして今、俺の下で横たわる紅莉栖の胸元は。とても、きれいな、肌色が――。
「――っ!」
 俺から少し遅れて自分の状況を把握したのか、紅莉栖はその顔を真っ赤にするとはだけた白衣の胸元を閉じ、まさに視線で人を殺せるぐらいの力を込めて睨み付けてきた。
 これはどう考えてもビンタで済めばいいところだと思い、覚悟を決めて目を閉じ、歯を食いしばったが――いつまでたっても衝撃はやってこない。
 恐る恐る目を開けてみるとまだ紅莉栖はそこにいて、顔は真っ赤というか耳たぶどころか首のあたりまで真っ赤だが、睨み付けてくる圧はずいぶん減り――そして、ぼそりと呟いた。
「……見た?」
「いや、その、あの」
「どっち!?」
「あ、すみません。はい」
 我ながら要領を得ない答えだとは思うが、どうやら紅莉栖には伝わったらしい。いや確かに一瞬とは言えないかもしれないけど状況が状況だっただけにはっきりと見たともいえず、でも確かに紅莉栖の白い肌と本人が一応隠してはいるもののバレバレな、控えめな――いや確かにまゆりや萌郁と比べればそうかもしれないが、それでもしっかりとその存在を主張しているふくらみの上には――
「この、HENTAI」
「いや、待て!」
 確かに見てしまったのは全面的に俺が悪かったのだろうが、まさか紅莉栖がそんな格好でいるわけもなく。場所がシャワールームの脱衣スペースだというのなら理解も出来るが、紅莉栖がいたのは開発室である。あんな所で服を脱ぐ理由があるなら説明して欲しい。
「そうだ、紅莉栖よ。そもそもお前はどうしてそんな格好を」
「それは――」
 言いながら紅莉栖の視線が泳ぎ、やがて一点で固まっていた。
 俺も首だけ動かしてそっちの方を見るとPCがあり、何かの拍子でマウスが操作されたのか、ウィンドウが一つ表示されている。
 そしてウィンドウに表示されているものは、じっくりと確認するまでもない。それはダルが『セーブデータを削除する』と言っていたあのゲームのプレイ画面であり、ついでに言うとイベントCGであり、もっと詳しく説明するとヒロインであるツンデレ少女が主人公のシャツを借りて『○○君のシャツ着てると包まれてるみたい』的なことを言っているところであり、つまりその。
「えーと」
「岡部が悪い!」
 言葉を選んでいたら怒られた。
「意味がわからん」
「岡部がシャツとか着ないから!」
 理不尽にもほどがある怒りだった。
 確かに俺はYシャツなど持っていない。いや、正確には持っているんだけど、それは大学の入学式の時に必要だったのでスーツも込みで親に買ってもらいはしたものの、どうにも窮屈な気がして、家のタンスの肥やしになっている。
「……着ていたらどうする気だったのだ」
「……」
 一応聞いてみたが、無言だった。
 無言だったが、再びモニターを見てみるとヒロインがまさに『○○君のシャツ〜』と言っているのがメッセージウィンドウに表示されていて。
「見るなっ!」
 頬を両手で挟まれて、視線を無理やり紅莉栖の方へと戻された。
「貴様! 今、変な音がしたぞ! さては俺を亡き者にするつもりだな!」
「五月蠅いわね、本当にそうするわよ!」
 そんなことを言い合ってみるが、状況は何一つ変わらなかった。よく考えると立てば済む話なんだけど、紅莉栖に両頬を押さえられた状態ではなかなかそう言うわけにもいかず。
「……確かにYシャツは持ってないが、Tシャツなら着替えがあっただろう」
 俺の記憶が確かならば、一昨日ぐらいにまゆりに選択してきてもらったはずだ。まだ切れているはずはない。
「Tシャツは身体に直に接触してるから、さすがにちょっと」
「いや、だからといって白衣って」
「五月蠅い! わざわざセーブデータ残していくせに、偉そうなことを言ってるんじゃないわよ!」
「それは」
 いや確かに一応セーブデータは残っているものの、それについてはこまめなセーブをした結果であって特に他意は……いや確かにその後上書きはしなかったけど。
 言葉を続けることが出来ず、視線を落とすと紅莉栖の胸元が。さすがにさっきまでのように全開ではないけど白い肌は見えるし、まじまじと見ている自分に気づいて慌てて視線を戻すと、そこには怒っていると言うよりどこかふて腐れているような、普段はその年以上に大人びて見えることもあるその表情が、今は年相応の――いや、もう少し下にさえ見える表情は普段見られない物であり。
 特に意識することはなく――無意識のうちに俺からか紅莉栖からか、お互いの顔が近づいていき――
「岡部。喧嘩するのはかまわねえけどよ。そろそろ綯が戻ってくる時間だから、もう少し、静……かに……」
 さすがにドタバタしすぎたのを見かねたのか、ノックもなしにラボにやってきたミスターブラウンの言葉は、実に珍しいことに尻すぼみだった。
 ここでもう一度状況を整理してみよう。
 ミスターブラウンは自分のビルの二階にいる店子が五月蠅いので、自分の娘が帰ってくる前に一言注意しようと思った。そして二階に上がり、ノックをせず――これについては礼儀が足りないという人がいるかもしれないが、基本的にこのラボに来るときにノックをする人間は存在しない。せいぜいがルカ子ぐらいである。
 とにかく扉を開けたミスターブラウンは、聞き分けのない店子に一言言おうとラボ内に入り。
 そこには半裸の紅莉栖の上に覆い被さり、紅莉栖は俺の両頬に手を添えてなんだかお互いの顔が近づいていくところで――
「すまねえな」
 髭面のスキンヘッドで筋肉質という、待ちゆく人に職業を予想してもらったら十人中八人ぐらいがプロレスラーと答えそうな中年オヤジは、その顔を真っ赤にしてきびすを返した。
「いや、ミスターブラウン! 貴方は誤解している!」
「いやいいって。今日はもう店閉めて綯迎えに行くことにするからよ」
「店長さん、違うんですって!」
「岡部、女は大事にするんだぞ。あと、綯のいるときは控えてくれな」
 状況に気づいた紅莉栖と二人で必死に弁解するものの、その巨体に似合わぬ俊敏な動作で退室すると扉を閉めた。しばし唖然としていると、下からはシャッターを閉める音に続いてトラックが走り去る音。
 そして静かになったラボ内には、ゲームのBGMだけがかすかに鳴り響いていた。
「どうするのよ一体!」
「どうしろというのだ!」
 そして、そんな言い争いを続ける俺たちのことはよそに、時間は無常に流れて日が暮れていく。


   ◇



 ちなみに理解ある大人のような言動で去っていったミスターブラウンではあるが、どうやら自分の店のバイト――桐生萌郁には話したようで、萌郁はその二つ名『閃光の指圧師』が示す通り、閃光のような速度で関係者にメールを送られ、数日後にはメイクイーン+ニャン2を貸し切っての『おめでとうパーティー』の招待状が届けられた。
「紅莉栖、何だそのどことなく見覚えのあるマシンは」
「過去に遡って私を止めてくる!」
「待て、タイムトラベルとそれに類する研究は禁止と言っただろう!」
「じゃあ、海馬に電流流して記憶を消去するしかないじゃない!」
「なんだその物騒きわまりない二択は!」
「手始めにアンタから記憶を失いなさい!」
「断る!」
 後日、『優勝すれば願いが叶う』とか意味のわからないことを言い、未来ガジェットを持ってファントムなんとかというところに旅立とうとした紅莉栖を止めるのは大変だったとだけ記しておこう。





後書きとおぼしきもの


 シュタゲアニメ最終回記念って言うのもアレだけど、いい機会かもと思ったのでシュタゲ祭りで発行して再版した夏コミでも無事完売したコピー本の内容を公開したり。一応TrueENDアフターな話だし。いや、最終回の余韻とか感動とか台無しだけど!
 あれだけ苦労したんだから幸せにラブったりコメったりすればいいんですよ!
 まあ、シュタゲ8bitがあるから苦労することは確定してるんだけどな。
 劇場版も発表されたことだし、シュタゲはまだまだおわらねーですよ。
2011.09.14  右近