裸Yシャツ〜林檎ちゃんの場合〜

「ふぅ……」
 僕は軽くため息をつくと、キーホルダーのついた家の鍵を取り出した。
 アレからもう数週間が経つのか……
 時が流れるのはとても早い。
 つい最近まで雪が降っていたかと思うと、もう桜が満開になる季節になっていた。
 一緒に同居生活を送っていた美樹ちゃんも、新しい住処を見つけてそこへと引っ越していった。
 まぁ、だからと言って疎遠になったわけじゃなくって、今でも学校で顔をあわせると、よく話をしたりするんだけど。
 聞けば美樹ちゃんは引越し先でも楽しく暮らしているらしい。
 彼女の笑顔は、まるで初春の陽光のように温かく輝いていた。
 美樹ちゃんがいなくなってからなんだか寂しくなったような気がするけど、よくよく考えてみればこれが普通の生活だもんな。
 さーてと……
 僕は鍵をドアの鍵穴に差しこみ、鍵を開けた。
 そして鍵を抜いてドアを開ける。
「せーんぱい」
「うわっ!?」
 突然かけられた声に、僕の体は一瞬ビクッと震えた。
 そして恐る恐る後ろを振り向くと……
「えへへ……こーんにちわ、先輩」
 よく知っている少女が、微笑みながら立っていた。
「り、林檎ちゃん!?」
 僕は驚きを覚えながら彼女の名前を呼ぶ。
「あっ、ひっどーい!ちょっと声かけただけなのに、そんな顔しなくっても。あたし、オバケじゃないんですからね!」
 林檎ちゃんは怒ったように顔を膨らませながら、僕のことを睨んだ。
 そんな顔されても……僕は心の中で呟かずにはいられなかった。
 だって、驚くなって言う方が無理だ。
 誰だって、自分が家の中に入ろうとした途端、まったく予期しない知り合いから突然声をかけられたら、絶対驚くに決まってる。
 ましてや、それが自分を慕ってくれる女の子だったなら……
「ど、どうしてここに?」
「どうして……って、先輩の姿が見えたから、後をついてきたんです」
「ぼ、僕の後を!?」
 僕は再び驚きを覚えながら、林檎ちゃんを見た。
「そうですよ。先輩ってばボーっとしちゃって、あたしが近づいてもぜーんぜん気がついてくれないんだもん」
 林檎ちゃんは平然とした様子で答える。
 僕、そんなにボーっとしてたかなぁ……
 まぁ、林檎ちゃんだったら、ボーっとしてなくてもついてきそうな気がするけど。
「それよりも先輩、中に入らないんですか?」
「あ、う、うん」
 僕は林檎ちゃんに促され、家の中へと入った。
「お邪魔しまーす」
 そして林檎ちゃんが、後をついてくる。
「へー……ここが先輩の家かぁ……」
「まぁ、どこにでもありふれてるような、普通の部屋だよ」
「でも先輩、ここで美樹と同棲してたんですよね?」
「『同棲』じゃなくって『同居』だよ」
 僕は林檎ちゃんの言葉に苦笑しながら、訂正する。
 まったく……僕と美樹ちゃんは恋人同士じゃないんだから、同棲ってわけじゃないのに……
「……って、何でそのこと知ってるの!?」
 僕は慌てて林檎ちゃんを見た。
「えへへー……実は美樹から聞いちゃいました」
「えっ!?美樹ちゃんから!?美樹ちゃん、喋っちゃったの?」
「はい。聞き出すのにちょっと苦労しちゃいましたけど……」
 林檎ちゃんは悪戯っぽく笑いながら、僕の先を歩いていく。
「あっちがキッチンで、そこが美樹の部屋……それで、ここが先輩の部屋ですよね」
 林檎ちゃんは声を弾ませながら、僕の部屋のドアを開けた。
「あの……ちょっと……」
[それじゃあ、失礼しまーす」
 林檎ちゃんは僕のことなんかお構い無しに、僕の部屋の中へと入っていく。
「しょうがないなぁ……」
 僕は軽くため息をつき、林檎ちゃんの後を追った。
「へぇー……ここが先輩の部屋なんだ……」
 林檎ちゃんは物珍しそうに、部屋の中をキョロキョロと見回す。
「思ったよりも綺麗に片付いてるんですね」
「綺麗……って、一体どんな部屋を想像してたんだい?」
「えーっと、もっとこう、散らかってて、足の踏み場もないような……」
「それじゃあ夢の島じゃないか。僕の部屋はゴミ箱じゃないよ」
「だってあたし、男の人の部屋に入ったのって、初めてですから」
「えっ?そうなんだ?」
「はい。だから先輩の部屋がこんなに綺麗に片付いてるのみて、ちょっとビックリしちゃって……あっ、ひょっとして、美樹がちょくちょく掃除してたとか?」
「そんなわけないよ。そーゆー細かいところまで僕らはあまり干渉しあわなかったから」
「でも、美樹はよく先輩にごはんつくってあげたりしたとか言ってましたよ?」
「まぁ、家事は分担してたから。流石に洗濯は別だったけどね」
「へぇ……そうだったんですか。でもよかった……」
「えっ?」
「あっ、いえ、なんでもないんです」
 林檎ちゃんは照れくさそうに笑うと、僕のベッドに腰掛けた。
「ねぇ先輩……もし、私が家出しちゃったら、ここに泊まってもいいですよね?」
「ええっ!?」
「もぅ!!そんなに嫌そうな顔することないじゃないですか!!先輩の意地悪っ!!」
 余程僕の反応が気に入らなかったのか、林檎ちゃんは頬をプクっと膨らませる。
「それよりも先輩、何か飲み物持ってきてくださいよ。あたし、お客なんですから」
「えっ?飲み物?」
「先輩ってば気がきかないんだから。あたし、缶のオレンジジュースがいいな」
「缶のオレンジジュース……って……」
「せんぱーい。早く買ってきてくださいよー」
「あっ、う、うん」
 林檎ちゃんに促されるまま、僕は財布を握り締めて、家を出て近くの自動販売機に向かった。
 林檎ちゃんって、あんなにわがままな娘だったかなぁ……
 僕の脳裏にふとした疑問がよぎる。
 確かに林檎ちゃんは多少強引なところはあるけど、ないものねだりするようなことは、今まで一度もなかった。
 僕に告白してくれた時だって……
 ……ひょっとして、僕が住んでる場所を教えてくれないから、実力行使に出たとか?
 ……ははは……まさかな……
「ふぅ……」
 自販機からオレンジジュースの缶を2つ取り出すと、僕は急ぎ足で家へと戻った。
 ゆっくり歩いて帰って、林檎ちゃんを待たせるわけにはいかない。
 それに、やっぱり、林檎ちゃんの行動には、何か特別な意味があるような気がする。なんとなくだけど。
 でもそれがなんなのか、僕にはわからなかった。
「はっ、はっ……」
 僕は息を弾ませながら、家の中へと駆け込んだ。
 そして林檎ちゃんの元へと向かう。
「お待たせー」
 僕は林檎ちゃんの待っている、自分の部屋のドアを開けた。
「!!」
 その瞬間、僕は衝撃的な光景を目の当たりにして、持っていた缶ジュースを床に落としてしまった。
「えへへ……お帰りなさい、先輩」
 僕の視線の先には、ベッドに腰掛けた林檎ちゃんがいた。
 しかしその服装は、先程までの制服姿ではなく、何故か僕のYシャツを着ていた。
 下着も身につけていないようで、ボタンの留めてないYシャツからは、ぷくりと膨らんだ左右の乳房の一部がチラリと見えている。
 オレンジ色の夕陽を浴びた表情は、はにかんでいるようで、嬉しそうに微笑んでいるようでもあった。
 僕は慌てて反対方向を向いた。
「ど、どしたの、その格好?」
「先輩驚かそうと思って、先輩のYシャツ着てみたんですけど……似合いますか?」
「えっ?に、似合うって、その……」
「似合いませんか……?」
「そ、そんなことないよ、とっても似合うよ!!」
「本当ですか?よかったぁ……」
 林檎ちゃんはホッとしたように安堵のため息をつく。
 対照的に僕の心臓はバクバクと高鳴っていった。
 林檎ちゃん、何であんな格好してるんだ!?
 と、とにかく、落ち着け……落ち着くんだ……
「そ、それよりも林檎ちゃん、着替えないの?」
 僕は呼吸を整えながら、林檎ちゃんに言った。
「えー?どうしようかなー?」
 林檎ちゃんの曖昧な返事が返ってくると、ベッドから立ち上がり、僕に近づいてくる足音が聞こえた。
 そして、その足音は僕の後ろで止まった。
「!?」
 次の瞬間、僕の背中に、心地よい感触の柔らかい膨らみが二つ押し当てられた。
 同時に、僕の胸の辺りに腕が二本まわってくる。
「美樹ばっかりズルイな……」
 背後から林檎ちゃんの呟きが聞こえた。
「毎日先輩と一緒に食事をしたり、先輩に手料理をご馳走したり、先輩に勉強見てもらえたりして……あたしも、先輩と一緒に暮らしたいな……だってあたし、先輩のことが好きだから……」
「林檎ちゃん……」
「いいんです。無理だっていうのはわかってますから。そんなことしたって先輩に迷惑かけるだけですもんね」
「そ、そんなことないよ。僕は迷惑だなんて……」
「先輩って、優しいんですね。いいんですよ、無理しなくっても。あたし、これ以上のわがまま言いませんから……だから……だから、もう少しだけ……このままでいさせてください……」
「……………………」
「先輩の背中って、あったかくって大きくって、優しい感じがするから……」
 林檎ちゃんの心音が背中から僕の体に伝わってくる。
 それはとても落ち着いていて、とても静かで、とても大きなものだった。
「林檎ちゃん……僕……僕は……」
 僕は林檎ちゃんの手をゆっくりと解いた。
 そして体の向きを変え、林檎ちゃんの両肩に手を乗せて、マジマジと見つめる。
「先輩……」
 林檎ちゃんは瞳を閉じた。
「好きだよ、林檎ちゃん」
 僕はそのまま、林檎ちゃんに口付けをした。
 柔らかい唇の感触。
 優しさに溢れた大きな温もり。
 唇を通して伝わってくる甘い吐息。
 ずっとずっとこうしていたい――そんな気分にさせられる、とても気持ちのいいキスだった。
 両腕を林檎ちゃんの背中にまわし、しっかり抱きしめる。
 林檎ちゃんも腕を僕の首の後ろに回し、放さないようにとしっかり押さえつけていた。
 僕達はしばらくの間、互いの感触を、互いの気持ちを確かめ合い続けた。
 そして僕達は、互いに重ね合わせていた唇を離した。
「なんだか、恥ずかしいな……」
 林檎ちゃんは頬を真っ赤に染めながら、ポツリと呟く。
「僕は嬉しかったよ。林檎ちゃんとキスできたから」
「もぅ……先輩の意地悪」
 僕の言葉に、林檎ちゃんは恥ずかしそうに俯きながら、僕を見つめる。
「でも……あたしも嬉しかったです。先輩がこんなにもあたしのこと想ってくれてるんだってわかって」
 そして林檎ちゃんは、悪戯っぽく笑った。
「それじゃあ先輩、あたし今日はもう着替えて帰りますね」
「えっ!?」
 突然の言葉に、僕は面食らいながら驚きの声を上げる。
「もう帰っちゃうの!?だって……」
「あたしも本当は先輩の家に泊まって行きたいんですけど……よく考えたら、明日って学校なんですよね。それにあんまり遅くなっちゃうと、パパやママが心配するから……」
「そうだよね……林檎ちゃんは独り暮らししてるわけじゃないもんね」
 ちょっと……いや、かなり残念かも……
 はぁ……
 大きなため息が、心の奥底から湧き出てくる。
「もぅ。そんなにガッカリしないでくださいよ。先輩ってばエッチなんだから」
 林檎ちゃんはそんな僕を見て、軽く肩をすくめた。
「週末、先輩の家に泊まりに来てもいいですよね?」
「あ、ああ、もちろんいいけど」
「それじゃあ、今日の続きは、その時に……」
 林檎ちゃんはそこまで言うと、頬を真っ赤に染めたまま黙ってしまった。
「うん、わかったよ……約束だよ」
 僕は頷くと、再び林檎ちゃんに約束の接吻をした。